さくらびと

春の暖かな日差しが辺りを照らす。桜の花弁がひらひらと風に煽られ宙を舞う。
私は桜並木の片隅に座り込んだまま、同じ服を身に纏う集団とその景色を眺める。服を着こなし慣れている人たちの表情は暗く、着こなし慣れていない人は不安そうな表情をして、自分のことで精一杯そうだった。そのはず、今日は高校生最初の登校日。新しい環境に誰もが不安を隠せないでいる。自分もその内の一人。
(そろそろ、行かなくちゃ…)
立ち上がろうと自分の足に力を入れると、ズキンと左足に痛みが襲う。
(まだダメ、か……)
薄汚れた花弁の絨毯に再び座り込む。
「冷たっ……」
自分の服が湿っているのを感じる。
(そういえば、昨日は雨だったっけ)
下ろしたての制服のスカートは徐々に湿った絨毯の湿気を吸っていた。すぐに立たなきゃとも思ったが、今更いいかと結論を出すが、思わず溜息が漏れる。
「どうしよ?」
そろそろホームルームが始まってしまう頃だろう。初日から遅刻するのか、と暗い気持ちになる。
左足の痛みはどうにも引きそうにない。もういっその事、休んでしまおうかと思った。親に事情を説明すればきっとわかってもらえるだろうし。そう考えていたとき、自分の前に一人の男子が立っていた。
「大丈夫ですか?」
その人は自分に向けて手を差し出す。差し出されたその手を掴もうと手を伸ばすが、一瞬だけ躊躇して引っ込める。
「えっと、うん…痛っ…」
痛む足を隠そうと動かした瞬間に激痛が襲い、声が漏れる。
「大丈夫じゃなさそうだね」
困った表情の彼は背負っていたリュックを前に持ってくると自分に背を向けてしゃがみこむ。
「背負うよ」
自分の顔が突然熱くなるのを感じた。熱は段々と体全体から放たれ、汗が吹き出る。
「い、いいよっ! 大丈夫! それに、ほら、制服濡れちゃってるし…」
必死に言い訳を考えては口に出す。初登校でいきなり男の子に背負ってもらうとか恥ずかしい、とか。体重重いから嫌だとか。キミも遅刻しちゃうよ、とか。自分でも何を言っているのかもわからなくなる。多分、余計な事ばかり口走っていたと思う。
そんなことしている間に桜並木を行く人影は自分と彼だけになっていた。
「もう、ホームルーム始まっちゃったから、見てる人は誰もいないよ?」
彼のその言葉で、言い訳を重ねる自分の口が止まる。
「お願い、します……」
紅く染まった顔を俯き隠しながらお願いする。
「うん」
彼は嫌な顔ひとつせず、背中をこちらに向ける。自分のカバンの持ち手に腕を通し、リュックのように背負うと、恐る恐るその肩に手を乗せて、ゆっくり自分の体重を彼に任せる。
ヨッコイショ、と小さく彼は掛け声をかけて立ち上がる。彼の背中からみる景色はさっきと同じはずなのに、特別綺麗に見えた気がした。少しの間だけ、その景色に見惚れていたが、ハッと我に返る。
「えっと、重くない?」
あぁ、こんな事になるなら朝ごはん抜けばよかったかもと少しだけ後悔する。
「少し重い」
彼はイタズラっぽく笑いながら言う。
「降ろしてっ!」
彼の背中で少し暴れる。
あぁ、やっぱり抜いて来るんだった!
「うそうそ! そんなに重くないよ」
そんなやり取りをしながら桜絨毯の上を歩く。不意に吹く暖かな春風が、桜の花弁を巻き上げ、桜色の雨を降らせる。
私はその時のことを忘れることはできないだろう。風に揺れた彼の髪の隙間。そこから垣間見た、彼の真っ赤に染まった染まった耳の色を。
私はこの時、名前も知らないこの人を好きになっていた、と思う。
キミとちゃんと話せたのは、もう少しあとのことだったよね。

学年がひとつ上がって、後輩が出来た頃。桜の並木道はすっかり緑に染まり、点々と淡いピンクの花が見えるようになっていた。
日陰にいないと億劫になるような暑さがたまに襲い、徐々に夏に向かおうとし始めている。
この学校では委員会活動というものがあり、特定の時期になると二年の各クラスから数名が立候補や、選ばれたりなんかで一定の期間中所属することになる。
学園祭の時期だったら学園祭実行委員、体育祭なら体育祭実行委員、見たいな感じだ。
そしてこの時期になると、園芸委員というものが募集される。園芸と銘打っているが、やっていることは実質ボランティア活動だ。
運が良いのか悪いのか、風邪で休んだ日に選ばれてしまった。選ばれてしまった以上、仕事は全うしよう。そう思いながら集合場所である桜並木だった場所で他のメンバーが来るのを待っていた。
(そういえば、この辺りだっけ?)
去年、名前も知らないキミとあった場所。自分に手を差し伸べてくれた場所。あの日に想いを馳せていると、背中の方から声が聞こえて来た。
「すいません、遅れました。大丈夫ですか?」
「あっ……」
どこかで聞いたことのある声に、あの時の記憶が鮮明になる。たわいない事を語り合った時、あの日肩越しから見た桜色の雨も、髪の隙間から見た紅く染まった耳も。忘れかけていた顔も、声もはっきりと思い出した。
胸の奥、心臓がギュッと苦しくなる。同時に、心臓の鼓動が早くなる。
「えっと、あっと…ううん、大丈夫」
頭が真っ白になりそうになる。そのくせ顔は紅く染まって熱をじわじわと放ち始める感覚がする。まるでストーブにでもなった気分だと後から思う。
「あれっ…もしかして、大山さん?」
彼は首を少し傾げながら私の名前を呼ぶ。
私も名前を呼ばれてから少ししてから思いだす。
「えっ…? あっ! 伊豆見くん!?」
私が驚いた表情で名前を叫ぶと彼は小さくハハッと笑う。
「なんだ、同じクラスだったんだね。基本的に委員の人って同じクラスになることないしね」
「そうなんだ、私その日は休んでいたから…」
私はバクバクと脈打つ胸を押さえながら、会話を途切れさせない様に必死に言葉を続ける。
「そう言えばそうだった気もする」
伊豆見は困ったように笑う。
「俺、なんか寝ていたっぽくてさ、寝言で『俺がやります』なんて言ってたらしくて気が付いたらコレだよ」
もし、神様なんかがいるなら今だけは本気で信じよう、そう思った。それにどこか抜けている私の好きな人にも、感謝しよう。
「そっか、それは災難だったね」
くすっと笑い合う二人に遠くから声が聞こえて来る。
「おーい! お前たち、ちょっと手伝ってくれー!」
恐らく園芸委員の担当教師が、大きな袋と箒を担いで歩いてくるのが見える。折角きちんと話せたのにな、と内心で呟きながらもしぶしぶ歩き出す私に対して、彼は楽しそうに走り出した。
「あ、はーい。これからよろしくね大山さん」
彼に向けられたあの笑顔はきっと忘れることはないだろう。いや、決して忘れたくないと思った。

伊豆見くんと共に園芸委員の仕事を始めて約2カ月が過ぎようとしていた。あの桜並木はすっかり葉桜が茂り、木々の隙間から洩れる光は強くなっていた。
教室の窓から射す光を薄いベージュ色のカーテンが風に揺られながら弱めてくれるが、それでも生地の隙間から覗きこむ光は眩しかった。
「ねぇねぇ、もうそろそろ夏休みでしょ? どこ行こっか?」
「もうそろそろ受験でしょ? 遊んでていいの?」
「勉強したくねー!」
教室内では夏休みに関する話題で持ち切りだった。高校二年生の夏。それはあまりにも中途半端な夏。
夏休みから何かを始めるにはあまりにも遅く、そして何かを諦めるにはあまりにも早い。
例えば受験勉強だ。進路を考えての勉強ならば、それはあまりにも遅い。しかし、夏休みの使い方によっては諦めるには早すぎる。
その他にも、そう、恋愛とか。
そんな事を考えていると不意に伊豆見の笑顔が脳裏を過った。
(な、何を考えてるんだろ私……)
私は両手で自身の頬をパンッと音を立てながら叩く。その音に驚いたクラスメートの視線が私に集中する。それに気が付いて慌てて私は「なんでもないよ!」と言って机に掛けていたカバンから適当に教科書やらノートやらを並べて誤魔化す。
(今更、遅いよね……)
小さく溜息をつきながら揺れるカーテンを眺める。

黒板の前で先生が教科書を開きながら何かを言っている。私はシャーペンを広げたノートにトントンと叩き続ける。
(そう言えば、伊豆見くんって、彼女とかいたりするのかな)
そんなことを思っていると、小学生の頃にクラスで流行っていた恋愛占いのことを思い出した。
(確か、自分の名前と好きな人の名前の回数シャーペンの芯を出してハートを描くんだっけ?)
ペン先から出ていた芯を一度しまって、自分の名前を心の中で呟きながらカチカチと押す。
(お、お、や、ま、さ、よ、こ…っと)
自分の名前だけでも大分ペンの芯が出て来た。占いの結果とかは全然思い出せないが、せっかくだしやってみようと思いながら今度は彼の名前を呟く。
(えーっと、い、ず、み、と、も、や…っと)
彼の名前を言い終えと、シャーペンからはかなりの芯が出ていた。いやいや、これで流石にハートは描けないだろうと思いながら、震える手先でハートを描く。
(ハートを描いて、その中を塗る。それまでに芯が折れなかったら実る、だったかな?)
そう思えば思うほど指先に力がこもる。ゆっくりと今にも折れてしまいそうなシャーペンの芯を震わせながらノートの片隅に置き、そっとカーブを描く。
全神経を芯に集中させて、カーブを描ききると力をゆっくり抜きながら先端を作る。
「ほぅっ……」
授業中ということも忘れて安堵の溜息をつく。そして一呼吸してから再び全神経を再び芯先に向け、残り半分に挑む。
曲線の描き始めに芯を置く。そして反対側と対象になるようにカーブを描き、描き終わりに向かってシャーペンを動かす。
人間限りある集中力を使って小さなハートをノートの片隅に描き終えると謎の脱力感が私を襲った。
(あとは…中を塗るだけ…)
ハートを描いた時とは少しだけ持ち方を変えて、丁寧に色を薄く塗っていく。塗残しがないように、ゆっくりと優しくペンを動かしていく。
(やった…!)
私は心の中で小さくガッツポーズを取る。ノートの隅に小さく描かれた光沢のある黒いハートを見て笑みがこぼれる。
(これで伊豆見くんと両想いだ! なんて)
「大山、大山!」
ふふっと小さく笑っていると突然自分の名前が呼ばれて立ち上がる。
「はっ、はいっ!?」
黒板の前に立つ先生が黒板に書かれた問題を指しながら尋ねてきた。
「大山、顔がニヤけるぐらいこの問題が簡単だったかー?」
(完全に見られてたっ!)
授業をそっちのけでノートにハートを描いていましたとは言えず。
「えっと、ニヤけるほど分りませんでした…」
そう答えると周りのクラスメート達はクスクスと小さく笑った。その笑いに恥ずかしくなった私はチラッと伊豆見の方を見た。すると、彼も小さく微笑んでいた。
そんな笑みが余計に恥ずかしくて俯きながら席に座る。
気が付くといつの間にか授業は既に終わっており、もうすぐ休み時間すらも終わろうとしていた。急いで次の教科の準備をするが、今日の授業の内容はこれっぽっちも頭に入って来ることは無かった。
その日の放課後、忙しなく鳴いていたセミの音楽団も終幕したのかすっかりおとなしくなっていた。
誰もいなくなった教室に私だけがポツンと残っている。私はおもむろに伊豆見の机を撫でた。
(きっと今からじゃ、何もできないよね)
ふと、休み時間に考えていた中途半端な夏のことを思い出した。
仮に今付き合えたとしても、作れる思い出はおおよそ一年と半分。そこに就職活動や受験などを考えると実際はもっと少ないだろう。それはあまりにもあっけなくて、あまりにも短い夢だと思う。
それにきっと、進路が邪魔をしてくるだろう。就職するにしても、進学するにしても、同じようにはいられない。それぞれのペースが出来て、きっとどこかでズレてきてしまう。
「もっと早く、動いとけばな…なんて」
そう呟いた時、背後から女の子の声が聞こえて振り返ると、そこに居たのはとなりのクラスの四垂八重(しだれ やえ)という女の子だった。
「えっと、大山さん。時間って、あるかな?」
隣りのクラスとの合同授業などでたまに一緒になる。特別仲が良いわけではないけれど、体育などの時はよくペアになって話したりはしている。
「え、んと…まぁ」
今日は別に園芸委員の活動があるわけでもないし、家に帰っても特にやることは無いで断る理由はなかった。
そう答えると八重は「ありがと」と少しぎこちない笑みを見せる。その笑顔に違和感を覚えながら「ベランダではなそ」と言いベランダに続く大きな窓を開ける。
夏の熱気を帯びた風が二人の髪を揺らす。夕闇色に染まりつつある空と街並みを眺め、ベランダの柵に私は寄りかかった。
八重は柵に右手だけ乗せて、左手は自分の髪をいじっていた。
二人の間に奇妙な沈黙が流れた。互いに最初の一言がなかなか出ずに時間だけが過ぎて行く。
「あのさ」
「あのね」
やっとの思いで出した一言目が重なる。
「そっちが先で良いよ」
「ううん、そっちからで良いよ」
互いに譲り合ってしまう。こう言う時、決まって嫌な予感がする。
「じゃあ、言うね?」
そしてその予感は大体的中するのだ。
「私、伊豆見くんのこと好きなの」


少し肌寒い空気で目が覚める。
「夢……」
視界の端に転がる携帯の電源をつけると画面にアナログ時計が表示されており、短い針は五時を指していた。目覚ましのアラームが鳴るにはまだ時間があるが、早起きは三文の徳という昔の言葉を信じて身体を起こす。
カーテンを開けると、春の穏やかな日差しが部屋に差し込む。年頃の女性の部屋にしてはあまりにも質素な部屋。小さな一人用テーブルの上には麦茶の入りっぱなしのコップと作りかけのドライフラワーが、床には昨日脱ぎ散らかした洋服や未ドライの花が散乱していた。
「…片付けよう」
一人暮らしを始めてもうしばらく経つが、どこか気を抜くとすぐこうなってしまう。別に片付けるのが苦手とかではないし、実家に暮らしていた時は身の回りは整理整頓されていた。しかし、社会人になり大人の付き合いとかで帰りが遅くなったり、残業とかで疲れていると翌朝になると服やらなんやらが散乱している。
テーブルのうえに置きっぱなしのドライフラワーを手に取ると、いくつものドライフラワーの瓶が飾られたタンスの上に移動させる。散らかった洋服は大まかに分けて洗濯機に放り込み、床に散乱した花は麻縄の付いた木製の洗濯バサミに挟んで窓辺につるす。
粗方片付け終えると丁度良い時間になっていた。冷蔵庫から昨日の残り物を適当に取り出し、簡単に朝食を済ませる。
それからしばらく身支度を整え終えると、会社に向かう時間には少し早いが、少し余裕を持って出ることにした。
私は玄関に向かいながら念には念を重ねて指さし確認をする。
「ガスの元栓よし、窓の鍵よし、資料よし、家の鍵よし、えーっと後は…」
そう言いながら玄関の扉に鍵をかける。
思い当たるものは特になし、と思いながらアパートを出た瞬間、目の前のゴミ捨て場にはゴミ収集車が止まっていた。
「あっ! 今日燃えるゴミ!」
そう言って慌てて自室に戻って行くのだった。

(各キャラのエピソードが入る)

「はい、すいません。本日も体調不良でお休みさせていただきます。はい、本当に申し訳ございません。はい、失礼します」
携帯の画面をスワイプし電源を切る。そして小さく溜息をつくとベッドに身を投げ出した。ギシッと音を鳴らしながらもベッドは私を受け止めてくれた。
「はぁ…なんで逃げちゃったんだろ」
この数日で何回呟いただろうか。もう覚えていないくらい呟いた気がする。私は仰向きになりながら天井へ向けて手を伸ばし、ゆっくりと瞼を閉じる。真っ暗な世界に、あの時の光景が映し出されていく。
鮮明にリピートされる光景に、思わず言葉が漏れた。
「もっと勇気があったら…」
八重が夕日に照らされながら語ったあの時、夕暮れの風に揺られたあの時も私には勇気なんてものは無かった。
「私、伊豆見くんのことが好きなの」
八重は頬を夕日にも負けないくらい赤く染めていた。そんな八重の言葉に私はただただ動揺していた。
「そ、そうなんだ」
「それでね、伊豆見くんって、その、何が好きかな?」
ベランダの柵に乗せていた手を下ろし、指先をもじもじとさせて尋ねる彼女に私の中の、何かが囁いたような気がした。何を囁いたのかも聞き取れない。考える前には口が開いていた。
「知らない」
言葉が放たれた後にようやく何を囁かれたのかを理解した。
「そうなの? でもほら、よく園芸委員のお仕事してる時とか楽しそうに話してるから…
「知らないよ」
そう突き放ちながら教室に戻ろうとする私の背中を、八重の言葉が引きとめた。
「もしかして、大山さんも……すきなの? 伊豆見くんのこと」
「……」
返す言葉が出て来なかった。
八重はそんな私の態度で何かを察したのか、笑顔で言う。
「ライバル、だね」

暗転。
夏の暑さが本格的に厳しくなり始め、夏休みに突入した雲ひとつない快晴の日。
園芸委員の作業があるということでこの日も学校に訪れていた。
いつものように校門付近の木陰で伊豆見が来るのを待っていた。
「ごめんっ! 今日も大山さんははやいね」
そう言って息を切らせた伊豆見がやってきた。
「ううん、大丈夫だよ。それに集合時間まであと十五分もあるし」
そういいながら私は携帯の電源をつけて彼に画面を見せる。
息を整えながら彼は画面を見ると「ほんとだ」呟いた。
伊豆見は相当焦って来たのか、髪は所々寝ぐせでピンと跳ねていた。そんなどこか抜けている彼が愛おしく思えた。
「ねぇっ」
そう言葉を発しかけた時、伊豆見の後ろのほうからもう一人誰かがやってきた。
「伊豆見くん、大山さん、こんにちは」
それは八重だった。
八重は屈託のない笑みで私達に挨拶をしてきた。
「あ、こんにちは、四垂さん」
伊豆見はペコリと頭を下げなげる。そんな彼の後ろで私は「こんにちは」と呟きながらそっぽを向いた。
あの日から彼女は園芸委員の活動がある時、決まって私達の前に現れるようになった。
まさか夏休みに入っても来るとは正直思っていなかった。完全に油断していた。
「今日って学校の草むしりをするんでしょ? 私も手伝うよ」
そう言って彼女はトートバックから軍手を取りだした。
「ありがとう、助かるよ。でも四垂さんは身体弱いから、あまり無理はしちゃダメだよ? 何かあったら俺にでも、大山さんでも言ってね」
「うん!」
彼女はうれしそうに返事をする。
そう、伊豆見くんは誰にだって優しい。困っている人がいれば助けたい、悲しんでいる人に寄り添おうとする。それらは彼にとって当たり前の事なんだろう。だけど、そんな彼の姿がたまに眩しく映る。
そんなやり取りをしていると、先生もやってきて炎天下の草むしりが始まった。
日差しをいっぱい浴び、伸びに伸びた雑草は少し毟っただけですぐに袋はいっぱいになった。先生と伊豆見は雑草でいっぱいになった袋をまとめたり、新しい袋を取りに行ったりと忙しなく動く中、私と八重は草を毟っては一カ所にまとめてを繰り返していた。
「ごめんね、私邪魔でしょ?」
八重はポツリと呟いた。
「……」
そんな彼女の言葉を無視しながら黙々と雑草を引っこ抜いていく。
「でも、負けないから。まだ間に合うから」
その一言で一瞬だけ私の手は止まった。
「間に合わないよ」
私はふつふつと沸く苛立ちを雑草で晴らすかのように地面にたたき捨てる。雑草の根に絡まっていた土の塊がボロボロと崩れながら撒き散らされる。
「諦めたら、可能性を全部捨てちゃうことになっちゃうよ」
「間に合わないよっ!」
私は立ち上がり、声を荒げながら雑草を握りつぶす。
「一年と…ちょっとしかないんだよ! いっしょにいられても、たったそれだけなんだよ! 卒業したら会えなくなるかもしれない! 進路だって別々になるし!」
怒りや悔しさに震えながら言葉を絞り出す。心の奥底では、彼女の言っていることは正しいと思った。やる前から諦めて逃げ出したって伊豆見の隣りには立てない。正しいからこそ、余計に腹が立った。
「一年ちょっとも、だと思うんだ。私」
「えっ…?」
彼女に言葉に思わず聞き返す。
「残りの時間を、伊豆見くんと一年と半分も一緒に居られる。そう考えたほうがきっと、楽しくなると思う」
八重はそう語りながら、雑草を抜いていく。そんな彼女を見降ろしながら、私は口を開く。
今、最低なことを言おうとしている。人を傷つけようとしている。両手を強く握りしめて、心に住まう黒い衝動を必死に押さえようとする。
チラリと周囲を確認し、まだ伊豆見が戻ってきていないことを確認し、小さく息を吸う。
「じゃあさ――」
背筋に冷や汗が伝う。ダメだ。こんなこと、思っても口にしちゃダメだ。そうどれだけ良心が引き止めようとも、既に口から放たれていた。
「消えてよ」
一度口から零れた黒は崩れたダムのように止めどなく溢れた。
「一年とちょっともって思うなら、私の思い出にジャマしないでよ! あと一年とちょっとも、伊豆見くんと思い出が作れるの! あなたに言われなくても、毎日を大切にしてる! そこにあなたが土足で踏み荒らしたのっ!」
その荒げた声は、怒りというよりも懇願に近かった。
「自分が邪魔者だって、分っているなら邪魔しないでよ!」
夏の日差しに熱しされた地面にポツリ、ポツリと雫が落ちては乾いていく。その雫が自分の頬から滑り落ちたものだと気付くのに時間はかからなかった。
その間、彼女は一言も発することは無かった。
「何か言ったら…」
そう八重の方を見た瞬間、ドサッという鈍い音が聞こえた。目の前には横たわった彼女の姿があった。
「え…?」
彼女の顔は真っ青で意識が朦朧としているのが見ているたけでもすぐにわかった。明らかに熱中症の症状だと思った。
すぐに先生を呼ばなくちゃ、と校舎の方を向いた瞬間、良からぬ考えが浮かんでくる。一度心から溢れ出た黒はその考えを受け入れようとした。良心が、理性が必死に心を繋ぎ止めようと、黒に襲いかかる。
一歩、前に進むと理性が。一歩、後ろに戻ると黒が。頭も心も、どうしたらいいか、どうしたいかも全部が混ざってぐちゃぐちゃになった。
地面に伏した八重が私に向けて手を伸ばす。口がパクパクと動いているが、何を言っているのかも分らなかった。耳に届かなかった。
そして私の心を、身体を支配したのは――黒だった。
私は彼女を見捨てて、一人家に帰った。
結局、私はなにも出来なかった。何もしなかった。
人を呼ぶことも、伊豆見に告白することも、伊豆見の隣りにいることも。
まだ、何もできていない。
また、何もできないのかな。


瞼を開けると、辺りはすっかり暗くなっていた。いつのまにかに眠ってしまっていたようだ。
嫌な夢を見たと、両手で顔を覆いながら溜息をつく。
「まだ…間に合うかな…」
携帯の画面をチラっと確認する。
(まだ閉店に間にあう)
あの時言えなかった言葉を、出来なかったことを伝えよう。どんな手を使ってでも。私を邪魔する八重はいない。
もう、八重はいないんだ。
簡単に身だしなみを整えると、玄関に放りっぱなしの黒いハイヒールの靴を履いて、痛いくらい脈打つ胸を抑えながら花屋へ続く道を走った。
「はぁっ…はぁっ…」
いつの間にこんなに体力が落ちたんだろう、と走りながら思わず笑ってしまう。緊張も相まってなのか、心臓の鼓動は今までにないくらい大きく激しかった。息はすぐ切れるし、心臓も痛い。酸素が十分に身体に回らないせいか、手も若干冷たく感じる。
上手く動かなくなってきた身体に突然ガクンっと衝撃が襲った。
「痛っ…!」
慌てて履いて来た靴を見ると右足のハイヒールが壊れてしまっていた。しかし、そんなことはどうでもよかった。左右の足に違和感も気にせずなく走った。
歯を食いしばり、腕を思い切り振り走った。
視界が霞む。涙か、それとも単純に酸素不足かもわからない。
足を襲う激痛と共に左足のハイヒールが折れ、バランスが崩れた。
「きゃっ!?」
呼吸もうまく出来ない状態で走り、酸素不足の冷たく震える手には力が入らない。このままでは頭から地面に落ちてしまうと思った。
(あぁ、結局なにもできないのか)
心の中で自分を嘲笑った。頭を思いっきりコンクリートにぶつかったらどうなるんだろ? 痛いかな? 血とか出るのかな? ……死んじゃうのかな?
その時、冷たく震える身体を誰かが受け止めた。
「大丈夫ですか?」
巡った。投げかけられたその言葉が記憶から記憶を巡って、思い出を駆け巡った。あの時、初めて出会った時の思い出に辿り着く。
「伊豆見くん…」
涙が零れた。
「どうしたの? 身体、冷たくなってるし……震えてる?」
伊豆見は心配そうな表情で顔を覗き込んでくる。私は彼の胸の中に顔を埋める。
「見ないで…酷い顔…してるから…」
「…うん」
彼の腕の中であの桜色の雨を思い出した。桜の絨毯を歩いたのを思い出した。彼の髪の間から見えた真っ赤な耳を思い出した。
あの日のことを思い出すたびに、身体の震えは止まっていた。
「ねぇ、ちょっと…花を見てもいい?」
私はそっと彼から離れると、最後の一押しが欲しくて尋ねた。明らかにもうお店を閉じようとしていたが、彼は微笑みながら「いいよ」と答えた。
私は店先に並ぶ花を眺める。赤に青に黄色に白、薄暗い闇の中でも僅かに見える。その中で一輪の闇に紛れる花が目に入った。その花を一本摘みあげた。
「ねーねー、マメくん。この花はなに?」
紫色の花びらをつけた花をフリフリ揺らす。もう少し、この一緒にいる時間を作りたくて知らないフリをして彼に尋ねる。
「それは竜胆(りんどう)だね。花言葉は…『誠実』に」
「知ってる」
私は竜胆を元の場所に戻すと、いたずらっぽく笑ってやった。
「なんだ、知ってるのか」
彼も小さく笑った。
二人の間に少しだけ沈黙が流れた。もう、時間稼ぎは出来ない。あとは、言葉にするだけ。
すぅっと深呼吸をし、あの日々を思い出すと言葉は自然と零れた。
「……ずっと好きだった、初めて会った時から。ううん、今でも、好き」
「えっ…」
彼は戸惑いの表情を隠さなかった。なんて答えたら良いか困っていた彼は、ぽつぽつと言葉を漏らす。
「でも…俺は…」
彼は俯いた。そんな彼に私は近寄って、つま先を伸ばし彼の襟元を掴むとグイっと引っ張った。
「えっ」
戸惑う彼に何も言わず私は唇を重ねた。時間が止まったような気がした。心拍数だけがどんどん増えていった。彼の唇は思っていたよりもずっと柔らかくて、ずっと温かくて、想像していたよりも嬉しいという気持ちが溢れ、心が満たされた。そして―。
名残惜しそうに唇をゆっくりと離した。余韻に浸りながら、私は固まる彼の右腕を優しく取ると、無駄に発育の良かった自分の胸に押し当てた。
「えっ!?」
彼の顔が一気に赤く染まる。そんな彼を見ながらきっと私の顔も真っ赤なんだろうなと思いながら、彼のごつごつした大きな手を自分の胸に押し当て続けた。恥ずかしさでどうにかなりそうだとか、太い指が胸に沈んでいるだとかそんな思考を放り捨てて、言葉を何とか捻りだす。
「わたしは…触れるよ? 伊豆見なら…私いいよ? 私なら…伊豆見を慰めてあげられるよ…?」
静寂が二人を包んだ。彼はゆっくり左腕をあげると、私の手の上に置き、優しい口調で言う。
「ごめんね、大山さん。八重が…いるから」
もう居ないはずの人の名を彼は口にする。
「そっか…」
私は伊豆見の右手を解放すると、一歩下がった。
「ばか」
「うん」
彼は困った笑顔を見せた。だから私は精いっぱいの作り笑いをした。大粒の涙を零しながら。
「竜胆の花言葉はI love best when you are sad(悲しんでいるあなたを私は愛しています)だよ。ばーか!」


ヒールの壊れた靴を左手にぶら下げながら、ひとり裸足で冷たいコンクリートの道を歩く。
誰一人いない夜道は寂しくて、思わず右手の人差し指で自分の唇をなぞった。何度も、何度もあの時の感触を、温もりを忘れまいと。
彼から強引に奪った唇は、思っていたよりも虚しかった。
「人の心の傷に付け込んで私って…」
ホントに最低。


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