見出し画像

なぜ横井軍平は任天堂を辞めたのか?

2001年8月13日記
2002/07/20Ver1.7
2022/09/02 ウェブリブログ「任天堂雑学blog」より移転。画像など追加。

横井軍平「なぜ私は任天堂を辞めたか」文藝春秋1996年11月号の目次(左)と本文(右)。
目次では副題が「訣別」となっているが、本文の副題では「惜別」となっているのが興味深い。

 任天堂開発第一部長だった横井軍平氏が退社する前日に、日本経済新聞は横井氏がバーチャルボーイの失敗によって引責辞任したと報じた。しかし横井氏はバーチャルボーイの失敗によって 辞任させられたわけではない。 横井氏によるとこの記事が出ると同時に新聞、雑誌の取材や講演の依頼がたくさん来たという。 

 その中で「山内社長のワンマン体制に嫌気がさした」と受けとる人が大勢いた。しかし、横井氏はまさに山内社長ワンマン体制こそが任天堂をここまで成長させたのだという。

 ワンマン体制=悪という感覚で取る人は多いが、経営はそう単純なものではない。そもそもベストといえる経営体制などない。

 特に商品がヒットするかどうかの嗅覚において山内社長は天才的である。

 例えば、任天堂の転機となった「ゲーム・アンド・ウオッチ」。

 5千万台近く売れたものだが、これこそワンマン体制だからこそ生まれたものである。これは横井氏が38歳のときに山内社長に提案したものだが、社長が興味を示して「すぐにやれ」ということで開発がスタートした。
しかし社内の反応は冷たかった。営業も宣伝も半数以上が「そんなもの売れるものか」という意見だった。

 もし普通の会社組織のように「ゲーム・アンド・ウオッチ」を提案し、営業会議で検討して、重役会にという手続きを経ていたら、必ずどこかでつぶされていたものだった。ところが社長がやれと言っているものだから誰も反対できない。

 社長の決断どおり発売したら大当たり。

 80億近い借金も一気に返済し、40億くらいの預金が出来た。そのわずかに出来た余裕をドーンとファミコンに投資した。横井氏でさえ「なにもそこまでしなくても」という感覚を持ったという。しかし、ファミコンは大ヒット。その後のゲームボーイなども同じような状況から生まれたという。

 横井氏は昭和40年に任天堂に入社した。同志社大学の電気通信工学科を卒業したものの、成績は下から数えたほうが早いくらい。就職活動をしても落とされてしまった。

 そこでたまたま見つけたのが、任天堂からの電気工学科生の募集だった。当時、新法が出来て30KVA以上の受電設備を有する企業は電気主任技術者を置かねばならなかったからだ。配属された部署は工務課。トランプや花札を製造する機械のメンテナンスをする部署である。

 ところが、電気管理というのは退屈で仕方がなく、勝手に会社の旋盤や彫刻機を使って玩具を作って遊んでいた。あるとき、社長がその玩具を見て「おまえ、それを持ってちょっと役員室へこい」といわれた。横井氏は怒られると思って行ったが、「それを商品化して売りたい」ということだった。入社してまだ1年も経たない、しかも玩具を商品化した経験もなければノウハウもない横井氏が、見よう見真似、金型の設計から整形して組み立てるかということまでやった。それが「ウルトラハンド」という商品になった。東京オリンピックの名残でウルトラCという言葉が流行っていたため、社長がこのネーミングを考えた。

 これが大当たり。140万個も売れた。当時、玩具は10万個売れたら大ヒットだといわれていた時代である。そこで社長が横井氏のために開発課をつくった。経理関係を行なうために配属された今西紘史氏(1996年当時は広報取締役)とたった二人でスタートした。そこからは「ウルトラマシン」や光線銃といった様々な玩具を誕生させ、たった二人の開発課が「トランプの任天堂」を変えていく事になった。

 このころの任天堂は一応組織はあるが、あってないようなものという時代が続いたという。横井氏自身、社長の直接の部下という気持ちだった。形式的には、製造部門の一部門で、横井氏と社長の間には製造本部長である常務が一人いた。だが、実際には、社長は直接横井氏に開発の話をするし、横井氏も直属の上司である常務とはほとんど開発の話はしない。実質上、社長が開発本部長であり、開発部は製造本部とは別の部隊であるという状態だった。
 
 横井氏の意見が役員を通り越して社長に直接繋がるので、ナンバーツーのような感覚を持つこともあった。これは横井氏だけではなく、社員皆が持っていた感覚だった。

 横井氏はこのころが一番楽しかったという。 

 かつて、いろいろな企業からスカウトを受けた。ものすごいボーナスを約束されたりもしたが、どんな仕事をするのかを聞かされたら、やはり任天堂のほうがよいと考え、心が動く事は無かった。

 しかし、任天堂は上場企業。巨額の利益をあげれば、株主への責任もあるため、一度挙げだ高水準の利益を維持しつづけなければならない。こうなるともう単なる閃きでは賄いきれない。横井氏も自分の存在価値がだんだん下がっていくだろうと感じはじめた。

 つまり、横井氏は一生アイデアを出し、玩具を作りつづけたかった。任天堂創業精神の「スキマ型玩具」のアイデアをひねくっていきつづけたかった。しかし利益を増加させるに従い、そのような商品開発を許されなくなっていった。これが退社の唯一の理由だったのである。

 マスコミはどうしても山内社長との喧嘩別れのように書きたがる。しかし、横井氏にとって、任天堂は育ての親であり、開発精神の故郷なのである。

参考文献

横井軍平「なぜ私は任天堂を辞めたか」文藝春秋1996年11月号




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?