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安心感ってそゆことか。

昨日紹介した『こころの対話 25のルール』

のこの部分がとても響いている。

もっとほかにもありますが、少なくとも、お互いの感情に触れるとき、わたしたちは「安心感」を体験します。それが、楽しさであれ、さびしさ、悲しみであれ、お互いの感情に触れるとき、わたしたちは、安心します。お互いの感情には「共感」することができるからです。たとえ、考え方が違っていたとしても、感情には共感できるからです。(伊藤守『こころの対話 25のルール』P.88)

「安心感」とは、お互いの言葉を聞きあって、お互いの感情に触れ合うときに生じる。

そして、その安心感はさびしさ、悲しみといった「負」とされる感情であっても生まれる。

そうそう、と思った。ちょうど昨日、僕は奥さんに自分の話をきいてもらったからだ。

僕はいまの自分がなにを考え、なにを感じ、なにを不安に思っているかということを彼女に語った。

ともに暮らす人だから後ろ向きなことは言いたくないけれど、うまくいっていないことだってある。なにがうまくいっていないと思っているか、なにがわからないのか、どうしていきたいと思っているのか、そんなことも話した。

彼女の不安を煽ってしまうのではないかと危惧していたけれど、驚いたことに「聞いて安心した」という返事がかえってきた。安心させる「証拠」も「結果」も見せられていないのに「わからない」と話したことがなぜか安心感を生んだらしい。

『こころの対話 25のルール』の先に引用した箇所を読んで、僕は納得した。昨日、安心感が生まれたのは、僕が率直に自分のことを語り、そこにある感情に奥さんが触れてくれたからなのだ。

戸惑い、困惑、怯え。それらは前向きなものではなかったにもかかわらず、僕たちの間の安心感を高めた。

思えばこれまでもそういうことは何度もあった。「問題」が起きていて不安の真っ只中にいたはずなのに、丁寧に聞いてもらうと不思議と安心してしまって、それがどうでもいいことのように思えてしまうことが。

あれは聞いてもらうことこそが安心感の源だったからなんだなぁ。

安心感はたとえばお金がたくさんあるとか、スキルが豊富だとかそういうことでもたらされるわけではなく、よく聞いて、互いの感情に触れたときに生じる。このことは不安が人生に及ぼす影響を気にしてきた僕にとって、とても大きな意味をもつし、なにより「聞くこと」はなんにもないところからでもできる。

僕は30代のはじめに会社員をやめた。そして、それまで興味がなかった「きくこと」に夢中になった。当時「聞かれないこと」にあんなに過敏になっていたのは、その痛みや「自己否定」を刺激しあうコミュニケーションをしてきた経験を身体が知っていたからかもしれない。

と昨日のブログに書いたけれど、会社員をやめてはじめて、僕は「聞いてくれる人」に出会えたのだと思う。

そして自らも「聞く人」になろうと思ったのだ。
聞かれるという経験はほんとうに、ほんとうに大きなことだから。

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