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好きなものは好きと言えるきもち。

マッキーこと槇原敬之さんは、1991年発表の出世作『どんなときも』でこう歌った。

どんなときも どんなときも
僕が僕らしく あるために
「好きなものは好き!」と
言えるきもち 抱きしめてたい

翌年、ザ・ブルーハーツは、シングル『夢』において、こんなふうに歌っている。

あれもしたい これもしたい
もっとしたい もっともっとしたい

「好きなものは好き」と言えるきもち、「あれもしたい」「これもしたい」と言えるきもち、それが「夢」になっていく。

当たり前のように思えるかもしれないけれど、大人になると案外これができない。「こんなこと言ったらどう思われるだろう」「ダメって言われたらどうしよう」「怒られたらやだな」、そんなふうに他者の目を気にして、あれこれ計算をはじめてしまうとその時点で「あれもしたい」「これもしたい」の純度が濁る。それを続けていると、やがて、なにがしたかったのか分からなくなる。

今日『作曲事始』というオンラインの作曲教室で、曲の方向性を検討しているときに、これと同じ話になった。

僕が手伝う作曲では「自分が気にいること」を第一に考えている。というか、それしか考えていない。他の人が気に入ったり、配信したりライブをしたりして多くの人の心に響いたり、そういったことは(可能性としてはあるとしても)当初の考えからは除いている。あくまでも、自分が「すごく好き!」と気に入ること。これを目指す。

でも、そのためには、自分の「好き」が明らかでないといけない。
作曲という作業は、言葉、音、その組み合わせ、全体の物語といったすべての決定権を作者がもつ。作者は「この言葉よりこの言葉がいい」「この音よりこの音がいい」といったことをいちいち決めていかなければならない。

裏返すとこれは「自由」ということになる。
なにをしてもいい、好きなようにしていい、全部決められる、ということ。これは本来、楽しいことなのだけれど、こういう制約のない状態だと、なにをしたらいいんだろうと戸惑う人も少なくない。

そういうときに原動力になるのは、自分が好きだと感じたことやなにかに感動した経験。あるいは逆に、これは嫌いだ、不快だと強く思ったこと。そういうものがいい意味での欲になって、曲を前に進めていく。それがないと、流れないプールに浮き輪で浮かんでいるみたいに、プカプカしたまま、どこにも動けなくなってしまう。

幼少期において聞き分けがよかった子よりも、わがままだった子のほうがこのあたりはスムーズな気がする。聞き分けがよかった子は「聞き分けてしまう」がゆえに、自分の衝動をさっと後ろに引いてしまうようなところがあるから。それは人間関係や社会生活をする上で便利かもしれないが、なにかを表現するときには馬力に欠ける。

先に引用した『どんなときも』の歌詞のつづきは、こうなっている。

どんなときも どんなときも
迷い探し 続ける日々が
答えになること 僕は知ってるから

ブルーハーツの『夢』のつづきは、こうだ。

たてまえでも 本音でも
本気でも うそっぱちでも
限られた時間のなかで
借りものの時間のなかで
本物の夢をみるんだ
本物の夢をみるんだ

本物の夢。人に与えられた限られた時間の中で、それをみるには「迷い探し続ける日々」が必要だと思う。

そのときに羅針盤になるのは、自分にしか分からない「好き」だ。
だからこそ「好きなものは好きと言えるきもち」は「僕が僕らしくあるために」「抱きしめてたい」ものなのだ。どんなときも。

好きでもないことをして、好きなものを好きと言えないままに生きていくことだってできる。でも、それじゃあ、甲斐がない。

家から遠くはなれても
なんとかやっていける
暗い夜に一人でも
夢見心地でいるよ

と言えるのは、心の中に「好き」というはっきりとした明かりがあるからなのだと僕は思う。

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