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非言語にして不可視。

オンラインで行っている『空中庭園』の相棒、橋本仁美ちゃんが、フェイスブックでイラストを投稿し、こんなことを書いていた。

非言語の橋

【てがかりは非言語】
 言語化するのがうまい人と、非言語のエリアにあるものをひろうのがとくいな人がいる。そうやってそれぞれの人が居る領域が、グラデーションのように異なっていると思う。同じ日本語を話していても。日本語の扱い方?が違うように思う。

 非言語的に多くのことを感じているけど、言葉にできない人がいる。反対に言葉にするのがうまい人は、非言語の人よりも感じられるものが少ない。そのかわり、言語でのコミュニケーション能力が長けている。

 非言語のエリアにいる人の声を聞いて、それを言語化するのを試みる人たちもいる。その人たちは、非言語エリアにいる人たちほど非言語領域の先を見通すことはできないのだけど、そのかわり非言語の人たちが見てることを聞いて言語へ変換する作業を通して、非言語エリアの人たちの世界を言語エリアの人に伝える架け橋のような存在になったりしている。
 ・・・
 言語化がとくいではない人たちが、がんばって言語化できるようになるべき、ということでもなく、それは無理な話だった。そもそも居る場所が違うから。どちらがすごいとか、優れてるとかいった問題でもなかったみたい。
 ロードオブザリングのエルフとドワーフとホビットのように、みんな、居る領域?次元?がちがうんだけど中つ国って同じ国に存在しているような、そんな感じ。エルフはドワーフにはなれない。なったらただのコスプレだー。

 今まで、「そうはいってもやっぱり言語化することはこの社会で生きてくためになくてはならないでしょう」と思ってたし、言語化への憧れもあったから、頑張ってたんだけど、土台ムリだったと実感。タイプが違ったのだった。

 「ここに文章として書いてるから、言語化できてんじゃん」と言われそうだな、と思うんだけど、「うーんと、そうではないんですよ〜。」という。うーん。やっぱりうまくいえないや。
 ・・・
 「そうね、いろんな人がいるよね。シャーマンみたいな人とか預言者とか、ほかにもいろんな意味で言葉ではない表現をする方々とか。」という声も、でてくるのだけど、「うーん、そういうことでもないんだ〜」と。もっとふつうのやりとりのなかでのことなんです。

 相手の話を聞いていて、受け取り手である相手が認識してるかしてないかに関わらず、こちらの相づちのしかた(声の長さ、音色、音程とか)でそこに自分の気持ちを乗せきって、伝えきってしまえるのです。そのかわり、言葉にはうまくできないという。

 やっぱりうまく言えない。
 でも、書くのはたのしいので、また続けようとおもいます。

言語と非言語のあいだを往来する仁美ちゃんの語りを聴きながら、同時に僕は「不可視」ということも思った。

非言語。言葉にならぬもの。
不可視。目には見えぬもの。

そうした、言葉にもならず、目にも見えない領域がある。
そのことを僕らはしばしば忘れてしまう。

・・・

こないだ、障がい者の宿泊施設に二十歳ぐらいの男の子が来た。

彼は踊っていた。
Eテレ「おかあさんといっしょ」の『つくしのムック』という曲をかけながら。ずっと。

彼は僕らと「ごはんたべる?」「たべる」くらいの短文でしか意思疎通ができない。どんな気持ちでいるのか、なにを必要としているのかを言葉で表し、理解し合うことはできない。

けれど、彼は音楽をずっと聴き続けることができる。何回も、何回も、何回も。『つくしのムック』の時は一時間近く、かけては踊り、かけては踊りを繰り返していた。最後には汗だくになっていた。

彼はたぶん、僕らと違う領域で生きている。

非言語的に多くのことを感じているけど、言葉にできない人がいる。

と仁美ちゃんが書いたような、そして「うまくいえないや」と書ける仁美ちゃんよりもずっと先のどこかで。

音楽は言葉よりもずっと彼と話ができている。そう思った。
そして、彼が曲をかけてうれしそうに踊っている時、僕は言葉を交わそうとしている時よりもずっと居心地がよかった。

ロードオブザリングのエルフとドワーフとホビットのように、みんな、居る領域?次元?がちがうんだけど中つ国って同じ国に存在しているような、そんな感じ。

だったかもしれない。

僕らの言葉の多くは彼のところに届かない。ちょっとした冗談も、哲学的な思索も、自分を表す表現も。「ごはん食べる?」「おふろ入る?」くらいしか通じない。僕らは生活必需品のようにしか必要とされない。

けれど、音楽は届く。彼をいきいきとさせる。
まるで深海まで照らす一筋の光のように。

目には見えない海の底にも深海魚がいるように、非言語で不可視の世界で生きている人たちがいる。

「きくこと」は、言葉をたどってその深い海に潜水するような行為だと思う。言葉が尽きるところから先に、また新しい領域がある。そこは音楽だけが届くような領域なのかもしれない。

二人でひらいている『空中庭園』のことを「非言語も含めたコミュニケーションの場」と仁美ちゃんは言ったけれど、僕らは「きく」ということを通して、言葉の先の音楽のあたりまで行ってみたいのではないかな、なんてことを思った。

そんな『空中庭園』。
次回は、5月30日(土曜日)開催です。


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