言葉はやはり恐ろしい

人間は、なぜ言葉を使うのか。

意思疎通をおこなうため、感情を共有するため、名前がないものを説明するため、過去を記憶するため、未来に想いを馳せるため。

いろいろな目的で人間は言葉を話すが、言葉とはやはりとても恐ろしいもである。その恐ろしさに気づかないと、所謂「言葉が独り歩きをする」ような状況に陥る。あるときは他人を傷つける凶器に変容し、あるときにはある民族を排除するための幻想を生み出す道具となる。プロレスラー木村花さんの自殺、第二次大戦のユダヤ人大量虐殺。全く別のことのように思えるが、共通点が一つもないわけではない。

言葉の獰猛性は、人間が理性によって抑制しないといけない。
非人道的な核兵器を、人間が理性によって抑制しなければならないようにだ。

ことばの正体

それでは、言葉とはどのような役割があるのか。

ことばの排他性

言葉は「現実を作る」という役割を果たす。この機能を分析するにあたり、言葉の「排他性」に焦点をあてる。

言葉とはシンプルだ。
言葉は、語られたことを語り、語られなかったことは語らない。

まず、語られたことに関してみてみる。
「私はトマトが好き。」誰かがこのように発言をしたとしよう。この発言から分かることは、その人は「トマトが好き」という事実だけである。どのようなトマトが好きなのか、どれほど好きなのか、そこにプチトマトは含まれるのかということは、分からない。この情報から私たちが知りうるのは「この人はトマトが好き」という一つの事実である。ちょうど、問題文に言及が無い選択肢を選ぶことを断固として許さないセンター試験現代文のような感覚だと思ってもらえればいい。

次に、語られなかったことに関してみる。「私はトマトが好き。」この発言で語られなかったことは多くある。この人はレタスは好きだろうか。イチゴは好きだろうか。やはり分からない。発言者は「私はトマトが好き。」の発言で、他の「好きなこと」の選択肢を全て排除することに成功している。

何が言いたいかというと
「言葉で何かを表現すること」とは「何かを説明する」と同時に「その言葉で表現されなかった全てを排除する」
ということである。

世界にAさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさんの5人しか人間がいないと仮定する。AさんがBさん、Cさんを遊びに誘うということは、AさんがDさん、Eさんを遊びに誘わないということを意味している。

つまり、言葉とはその排他的な性質から、世界を分断するように機能する。世界を分類する。発せられるたびに境界線が引かれる。人間の意識とは無関係にこのような力が働く。

意識していようが、無意識であろうが、言葉から言葉の排他性を奪うことは出来ない。人間はこれに打ち勝つ術を知らない。

ことばの相対性

ここまで説明したことで、言葉の客観的な性質が見えたと思う。しかし、言葉は「語られたこと、語られなかったこと」のダイコトミーだけで説明が完了するほどシンプルではない。これはあくまで理論的な話である。人間が言葉を使用する実践的な場面では、言葉はより複雑な機能をもつことになる。それは、言葉の主観的な機能である。

言葉が主観的に捉えられるのは、言葉の性質ではなく人間の「想像力」に基づく。そして、その想像力とは、ある個人が生まれてから触れてきた価値観、見てきた景色、訪れた場所、関わってきた人などによって構築され常に変化する。

この想像力こそが、言葉の絶対的な客観性・排他性に「主観性らしさ」を付け加える役割を果たす。強調したいことは、言葉は主観性を持つように感じられるだけで、主観性はもたず、主観性はあくまでも人間の想像力で生まれるということである。

ここで例を挙げる。
「私はトマトが好き。」この言葉は人により、受け取り方が違う。なぜならトマトとは地域、国によって大きさ、形、さらに色まで異なるからである。(メキシコでは緑色のトマトを使い、サルサソースを作ることもある。) 食べ方も一様ではない。

他にも「待ち合わせに2時間遅れた。」という言葉。日本では、待ち合わせに2時間遅れるとは普通ありえない話である。謝るだけで満足できない人もいるかもしれない。対して、ラテンアメリカ諸国では待ち合わせに2時間遅れるのは、別に特別おかしいことではない。この違いはなんだろうか。それは「文化」の違いである。文化ごとに「時間」の概念が異なるため、「待ち合わせに2時間遅れた。」の言葉は異なる意味を持つことになる。発せられた言葉は1つであるにも関わらず、違う印象を与える。

つまり、1つの言葉が違う意味を持つのは、その言葉、言葉を発した人、言葉を受け取る人の「関係」の中で相対的に生まれるからである。

言語化の落とし穴

結局、この文章は何が言いたいのか。
この文章のタイトルをもう一度見てほしい。

「言葉はやはり恐ろしい」

言語化。抽象的な事柄を言葉にして整理する作業。日常のあらゆる場面で、人間は言語化を試みる。

しかし、言語化はとても難しく、様々な危険を伴うことを忘れてはいけない。特に、言語化する対象が感情、観念、志などの場合は細心の注意を払う必要がある。なぜか。

その答えは既に述べたところである。

それは、言葉は発せられた瞬間から、世界を分断するように働くからである。誰かが何かを語ったその瞬間から、語られなかった何かを疎外するからである。それは人であり、空間であり、現実であり、存在である。

「平等」

女性の権利の尊重を求めるある者は発言する。「男と女は平等であるべきだ」
この発言で、発言者の意図とは関係なく、全ての男女の違いを否定することになる。この発言から分かることは、「男と女は平等であるべき」だからである。

昨今のBLM運動である者はこう発言する「人類は平等であるべきだ」
この発言では、語られなかった「人類の多様性」を否定することになる。

問題は「平等」という言葉である。広辞苑によると平等とは「かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと。」である。平等な世界では、全ての違いを無視して、全てのものが一様になる。誰か1人の人間、社会集団の価値基準で全てのことが決められる。完全に平等な世界というのは、その言葉とは対照的にとても残酷なものだ。

アメリカという国は、戦後、ある価値観を他国と協力して推進してきた。「民主主義」という価値観である。

しかし、民主主義という価値観が正しいことを証明するために、とことん反対派を駆逐してきた。ある時には、犯罪者を取り締まる警察のように。ある時には、逸脱者を更生する保護観察官のように。

民主主義という言葉に縋り、他国との対話を怠ってきた。
そのことで、本当の意味での他者の理解ができていないことで、現在様々な問題が生まれている。

言語化というものは、常にその理想と現実の間にギャップを生じさせる。
言語化に甘えて、すべてを一様にとらえていたら、理想は達成されない。

語られないものを解釈する

価値観が多様化する時代。
技術の発達により他者との距離が異様に近くなった時代。

このような時代に生きる人間には何が求められるのか。

語られた世界を「疑い」、語られなかった世界を「解釈」する力

これが求められる。

語られた世界とは、分断された世界。
語られた世界とは、境界線がたくさん引かれた差別的で排他的な世界。

語られなかった世界に注目することで、分断された世界をより正確に、客観的に見ることができる。

「自」と「他」

他者の理解とは本当に難しい。本当に難しい。
なぜなら人間は「語られた言葉+自分の想像力」で他者を捉えるからである。

それではどのようにして、この罠から抜けるか。

それは「他者は自分を理解してくれる。」という期待感を捨てることだ。

他者とは簡単に理解できない。なぜなら他者とは、自分とは異なる人間だからである。

他者と「完全に」分かり合うことは、不可能である。なぜなら、あなたはあなたで他者になれないから。

この主張は悲観的に見えるが、悲観的ではない。

他者を「自分とは異なる他者である」と認識することが、本質的に他者を理解するための一歩である。

そこから、他者との違いを認め、尊重し、理解しようとする。
この積み重ねにより、他者に対して優しくなれる。このようにして、ジェンダーフリー、男女の相互尊重、ある人種に対する不当な差別撤廃、文化の共存が達成されるのだ。

もしかすると人間とは、常に言葉と戦ってきたのかもしれない。

言葉を理解し、言葉と向き合うことが、遠い昔に言葉を生み出した人間が自分たち人間に課した課題なのかもしれない。

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