ヒト学とは?

メキシコ留学を始めて、半年が経つ
文化人類学を始めて、半年が経つ

この投稿で、改めて文化人類学とは何で、何でないのかをまとめたい

I 文化人類学とは「ある社会に存在する文化を観察・分析する学問」である

文化人類学の説明に欠かせない概念が「文化」である。文化とは一つの絶対的な定義がなく、文脈ごとに異なる性質を見せる。よって、まずその性質のいくつかを紹介したい

I-i 文化:性質①

文化とは、言語、宗教、習慣、規範など、ある社会において共通する思考・行動の体系である

日本人は、空気を読む。
アメリカ人は、アメフトが好きだ
インドネシア人は、1日5回礼拝する

このように、ある社会において共通する行動、思考を文化と呼ぶことができる。もちろん文化は一般化することはできない。空気を読まない日本人もいるだろうし、アメリカ人でアメフトが好きではない人もいるだろう。しかし、アメリカ人に人気のスポーツの「ひとつ」としてアメフトが挙げられるのはこれもまた事実である

しかし、文化の違いは「国籍の違い」だけに現れるものとは限らない。次の例を見てほしい

この企業には、協調的な文化がある
高校生の間で、tiktokが流行する
女性の間で、タピオカが流行る

このように文化とは、ある人の集まり(社会)が同じ行動をとる、その社会の中で同じ目的・価値観が共有されているなどの特徴がみられるところに存在する。よって、文化とは、「文化の違い=国家の違い」の方程式に収まるものではないと言える

さらに「文化」をより理解するために、上の3つ目「女性のタピオカ文化」を例に文化現象を紐どいていく

まず、「対象の認識」
タピオカ文化を持つ人の中では、何がタピオカであり、何がタピオカでないかが共有されている。黒い粒々がプラスチックの容器に入っていている飲み物であり、太めのストローを容器に刺して飲む。タピオカ文化を持つ人の中で、このこと、つまりタピオカの存在を知らない人はいないだろう。

次に、「言語の共有」
タピオカ文化を持つ人の中ではタピオカという言葉を共通認識として持つ。それだけではなく、ゴンチャ、春水堂、彩茶房といったお店の名前も共有している。タピオカのお店がある原宿、表参道、銀座などといった言葉も例外ではない

そして、「アイデアの共有」
タピオカ文化を持つ人の中ではタピオカを、可愛い、流行、モダン、インスタ映えというようなアイデアと結びつけている。タピオカを飲んだことを他人に伝えるためになにかしらのSNSも持っているだろう

そして、「いつ飲むのが相応しいか」
学校帰り、休日、友達と出かける時はタピオカを飲むのに相応しいといえる。逆に、10kmマラソンを走ったあとの一口目がタピオカになることはないし、飲み会でタピオカとお酒を割って飲むなんてこともしないだろう

この説明には終わりが存在しない。どのように飲むのか、誰と飲むのか、どんな年齢の人が飲むのか、どのように店の前に列を作り、どのようなやりとり、言葉を店員と交わすのか、など分析などいくらでもできるからだ

上の簡単な分析で見たように、タピオカを飲む女性たち(今の分析では男性は対象外にしたが) には共通した思考、行動パターンが存在している。このような共有された認識と価値観を「文化」と呼ぶことができる。タピオカを飲む人たちは、タピオカを飲んでいる人を見る、タピオカの店を探す、タピオカを買う、タピオカを飲むなど、数多くの過程を経験し、タピオカ文化を体得する

何をこんな分析くだらない、と思った人もいるかもしれない。当たり前すぎることを説明してどうするのか。しかし、この分析は実はとても大事である。なぜなら、文化とは性質①「ある社会に共通する行動・思考パターン」を【人間に強制する力】を持つからである

I-ii 文化:性質②

文化とは社会的なルールであり、個人にそのルールの遵守を強く求める

文化とは、ある社会において個人がどう行動するか(Do)、するべきか(Should)を強制的に決定する力を持つ。ある社会に存在する個人(Individual)は無意識的に「文化の奴隷」であり、その行動・思考パターンから逃れることはできない

簡略化すると、文化とはルールであり、ルールに従う人は社会から守られる。ルールに従わない人は、社会の外に追い出される

この文章を読んでいる人も、書いている私自身も、そろそろタピオカ文化の説明に飽きてきたので、例を変えて文化の性質②を説明したい。次は、日本人に共通する「空気を読む文化」を例とする

日本には「空気を読む文化」が存在している。私が初めてこの言葉に触れたのは小学2年生のときだった。「相手との協調性・関係性を保つために空気を読むことは大切です。」と担任の先生が説明していたのを覚えている。当時の自分はこの言葉が理解できず困惑したことを覚えている。その後、空気を読むということをうまく説明している言葉に出会った。「本音と建前」である

自分が言いたいことが、社会的に適当か不適当なのかは社会が判断する。その社会の判断を予想した上で、行動する。この社会の判断を予想する行為が「空気を読む」ということである

日本人は歴史的に「空気を読む」という文化を生み出した
「気遣い、遠慮」という言葉を生み出して、日本人に広く認識させた。年齢の差(先輩と後輩)、立場の差(学生と教師)など様々な「差」を生み出し、空気を読まなければならない場面を作った。エスカレーターで片側を開ける、箸で遊ばない、電車では通話禁止といったルールを生み出した

これらの文化は「権力者ひとりの力」により生まれたものではなく、日本人という社会が歴史的な「経験」を経て生み出したものである

日本に住む人は、この文化の中で生きることになる。様々な社会経験(親や友達との関わり、アニメを見る、部活動をするなど)を経て、この文化を体得するからだ。この文化を守れない人は日本社会で生きづらい立場に追いやられるだろう

それほど強く社会に、そして個人ひとりひとりに根付いている行動・思考パターン、ルール、これらを文化と呼ぶことができる

II 文化人類学とは「ある社会に存在する文化を観察・分析する学問」である

以上で「文化とは何か」を説明してきたことで、初めに紹介したこの定義の理解度が上がるだろう。文化人類学とは、ある社会に存在する文化を観察・分析する学問である

しかし、似たような学問がもう一つ存在する
「社会学」である

社会学と文化人類学の違いは何か?
以下で説明したい

II-i 社会学との違い

社会学は、名前の通り「社会」の研究に関する学問である
もちろん、社会を研究するのに「文化」という概念から離れることは不可能であろう。社会が存在する場所には、必ず文化が存在する。その反対も然りである

社会学と文化人類学の大きな違い、それはその「方法論の違い」にある
(ここでは社会学の方法論を紹介するのではなく、文化人類学との方法論の比較をするのみとする)

人文社会科学にとどまらず、研究をするにあたって基本的に大切な姿勢がある。「客観性」である。仮説を立て、実験でデータを集め、集まったデータを分析する。客観性を欠く研究は研究とは呼ばれず、研究者の努力も評価されずに消えていくことになるだろう

客観性を保つために、社会学の研究が用いる方法論として、事例研究・調査研究・統計分析などが挙げられる。アンケートを行い統計のデータに使う。研究室を出て、現場に出向きインタビューを行い、調査研究の材料とする。その社会で起きたある出来事を事例として分析する。かなり一般化したが、このようにして、社会の研究をするのが社会学といえるだろう

対して、文化人類学はかなり異なるアプローチを用いて社会を研究する。それが「フィールドワーク」である

II-ii フィールドワークとは

研究者自身がある社会の一員となることで、ある社会に存在する文化を分析する方法である。

ここで強調すべき文章は、「ある社会の一員になる」という部分である。これは社会学者のように研究したい社会の現場に赴くということとはまるで違う。「ある社会の一員になる」が意味することは何であろうか

それは、人類学者が行うことは社会に「赴く」のではなく、社会に「入る」ことである。つまり、研究する社会に存在する「言語」を話し、研究する社会の「食事」を食べ、研究する社会の「ルール」に従い、研究する社会の「宗教行事」に参加し、研究する社会で着られている服を自ら着て、研究する社会集団が寝る空間で自分も寝るということである。そして、その社会に入る期間は短い人で1年、長い人だと2年以上にも及ぶ

そして、研究する社会に存在する思考、行動、権力構造、規範(ルール)、信念を観察・分析して「民族誌」または「民俗誌」としてまとめる。これが文化人類学が方法論として採用していて、社会学とは大きく異なる点である

II-iii 客観性を保てる?主観的ではないか?

ここまでの説明で感じた人もいるかもしれない
「文化人類学はあまりにも主観的だ」
「研究者ごとに分析結果も観察結果も異なるのでは」
たしかに、文化人類学の学問においてこれらの批判は常に議論されている。しかし、本質はこの点ではない

「なぜ客観性を欠くとも思われる方法をわざわざ用いる必要があるのか」
本質はこの問いの答えにある

それは、ある文化を保つ心理構造は内側に存在するからだ

人間は人間が気づかないうちに自分たちでルール、習慣、言語を文化として生み出し、そのルールに則って思考・行動する。しかし、その文化の中で生きる人間が自分の文化のことを語るのは容易ではない。なぜか?それは語るには取るに足らないほど、その文化が「当たり前」になっているという事実である

心理学者のフロイトが人間の「無意識」という概念を見つけたことと同じである。無意識の概念は簡単に説明すると、人間は認識できない意識を自己の中に持っているという概念である。自分が認識できない意識(無意識)により、自分の行動が決められていることもありえるといった考えだ

個人のレベルから社会のレベルに考えたら文化人類学の観察したいことがより鮮明に見えてくる。文化人類学は、「ある社会の中に存在する無意識」を解明したいと考える。権力、宗教、言語、家族など社会に存在する様々な「構造」がこの場合の無意識といえるだろう。そしてこの構造を保つ心理的構造は文化の内側に存在する

その心理構造を理解するためには、社会学者のように現場に「赴いて」観察することでは解明できない。ある社会に「入り」、彼らと同じ言語を話し、同じ食事を食べ、同じ行動をすることで彼らの思考パターンを知る。その活動、その活動から得た思考を書き起こすことで、その社会の構造(権力、宗教、言語、家族)を解明する

そのためにフィールドワークという方法論は最適かつ必要であると文化人類学は考える

次に、文化人類学の基本的なアイデアを説明し、文化人類学という学問の性質を知ってもらいたい

II-iv 学問の「脱西欧化」を目指して

上で方法論としてのフィールドワークを紹介した
そこで常に議論があるという「客観性」の問題に関してさらに、文化人類学が提示する考えを紹介する

「科学的なデータに基づくものが研究である」という主張に対して、文化人類学はこう反応する、そんな主張は「西欧化された偏ったアイデア」であると

科学的なデータに基づく研究とは西欧が歴史的に確立してきた方法論である。植民地化(海外への進出)、フランス革命(個人の自由の概念)、産業革命(社会構造の変化)、2つの大戦、このような歴史を経験し世界の頂点となった西欧が大きな影響力を持つ現在の世の中では、学問に関しても西欧的な概念、方法論に偏向している

特に顕著なのが、「進化論」的な思考である
ダーウィンが生物の進化論を提唱してから、それを社会に当てはめる解釈が支配的となった。そして、社会が未開文明から文明に至るまでには、いくつかの過程を乗り越える必要があり、そして今のところ西欧がその過程の一番新しい位置にいるという主張である

分かりやすく例をもって説明すると、
ヨーロッパは進化の一番新しい位置にある。昔は争いが絶えず、貧困で苦しんだこともあったが、様々なことを経験して今では、人間の尊厳を理解し国連や欧州連合という平和を保つための国際機構をつくるまでに成長した。アフリカも今は紛争・貧困が絶えないが、いずれ「私たちヨーロッパ」が経験したのと同じように、様々なことを経験して、「我々ヨーロッパ」と同じように人間の命のすばらしさを尊重するまでに「成長」できるだろう

こういった考えを進化論という

文化人類学はこのような「進化論的」な社会の発展をとことん否定する

その考えを表したものが、「文化相対主義」という文化人類学において基本的かつ重要な概念である

II-v 文化相対主義

「自文化と他文化の間には異なる価値観が存在し、その間に文化の優越は存在しない」という考えのことである

ある先住民文化を例にしてみてみる
パプアニューギニアの一部の民族の間では行われている儀式がある。それはカニバリズム(人食い)である。私たち(少なくともこのnoteを読んでいる人たち)にはカニバリズムの習慣はない

①私たちの観点(自文化)、②儀式を行う人の視点(他文化)、③文化人類学(文化相対主義)の3つの観点からこの儀式をみてみる

①私たちの視点(自文化)からその行いを観察すると、「ありえない、狂ってる、野蛮だ、劣っている」という感情を持つだろう

②しかし、行いを行っている人々の視点(他文化)からその行いを観察すると、それは伝統的に行われてきた儀式であり、その儀式を行う理由(ロジック)が存在している

③文化相対主義を持つ文化人類学がこの行いを見る。すると次のように考える。「私はその儀式を行う習慣はない。しかし、彼らのことは野蛮だとも、劣っているとも考えない。なぜなら、彼らには彼らのロジックがあるのはずだからだ。」

上の3つを比較すると明らかだが、文化相対主義を簡略化すると
「他人は自分とは違うから、その他人の価値観を尊敬する」ということである

このような考えを学問の中心に置き、「進化論的」な社会の分析を否定する。なぜなら、文化・社会に優劣は存在しないと考えるからだ
進化的観点から「劣っている」と判断されるようなアフリカの民族や、アマゾンの先住民の文化にも、確かな価値観、ロジックが存在している、このように考える

これが、文化相対主義であり、文化人類学に深く根付いている概念である

まとめ

文化人類学とは「ある社会に存在する文化を観察・分析する学問」である。

この文章を理解するためにいくつかの道のりを辿ってきた

1.文化とは、言語、宗教、習慣、規範など、ある社会において共通する思考・行動の体系であること

2.そして、社会的なルールであり、個人にそのルールの遵守を強く求める

3.社会学との違いは、「方法論であるフィールドワーク」にあること

4.「客観性」、「進化論」といった西欧中心主義的な知への挑戦

5.文化相対主義(他の違いを認める姿勢)

この5点から、文化人類学を説明した。
今回の投稿で、文化人類学への理解が深まったら幸いだ。

ある文化人類学の教科書に載っていた一文を紹介したい
"Anthropology is like teaching fish the meaning of water."
(人類学とは、魚に水の意味を教えるような学問である)

魚は水がないと生きていけない。その事実は「当たり前」すぎて語られることも、問われることもない。魚は陸に打ち上げられて、水がなく呼吸ができない状態の時に初めて水のありがたみを感じることができると思う
(魚に認識能力があるかは分からないが)

人間に当てはめてみるとどうだろう。人間にとって「当たり前なこと」とはなんだろうか。あなたにとって当たり前なこととは何だろうか
その当たり前を説明することで、何かが変わるだろうか

私は変わると信じています。

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