天神橋雑感

 大阪の大川に架かる天神橋は中之島の一番川上側の橋です。

 今は道幅の広い松屋町筋に架かっています。橋を渡って北に歩いて行くと日本で一番長いと言われている商店街・天神橋筋商店街につながっています。しばらく行くと右側に天満の天神さんがあります。橋の名前はこの天満宮にちなんで付けられたそうです。明治時代には鉄の橋に架け替えられました。橋の北詰と南詰には天神橋と記された銘板が掲げられていました。その銘板は現在の橋の架け替えの時外され、橋の北詰の西側のたもとと、天満宮の社の北にある星合池のほとりに保存されています。

 天満宮のあたりは天満と呼ばれている地域で、江戸時代からの青物市場があったところであり、大阪でも船場と並んで古い街です。

 私の祖母は、この天満の樋之上町というところの薪炭問屋の末娘で明治22年の生まれでした。

 明治時代の大店では施しをするのが習わしだったのでしょう。祖母から聞いた話ですが、四天王寺の弘法さんの縁日には男衆に頼んで天秤の籠の両方にいっぱい詰めた花紙を門前まで運び、参拝する善男善女に配っていたそうです。祖母が小学校の児童だった頃はいつもついて行ったそうです。もちろん歩いて行くのです。

 天神橋を渡り、松屋町筋を南下すると生魂神社の西側を通り、寺町を過ぎると逢坂のたもとに着きます。昔の松屋町筋は、まだ狭い道幅でおもちゃや菓子の問屋がたくさん軒を連ねていたことでしょう。未だに残っている石標には八軒家浜、四天王寺、今宮の文字が読み取れます。そこを左に折れて少し坂を上ると一心寺がありもう少し坂を登り詰めると「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と揮毫された額を掲げた四天王寺の大鳥居があります。鳥居の脇には「大日本佛法最初四天王寺」と記された大きな石柱が立っています。この辺りで施しをしていたのでしょうか。1970年代頃までは、白い装束に陸軍帽をかぶった傷痍軍人が施しを求めていたのを覚えています。中にはアコーデオンを奏でる人もおりました。

 もう一つ興味深い話をしていました。奥歯が虫歯になり痛みがなかなか癒えないときに、母親は、天神橋の欄干に頬を当ててずっと歩いて行けば痛いのが消えると言ったのでそれを実行したそうです。天神橋は鉄の橋、欄干も鉄でできていて冷んやりているので炎症が消えていったのでしょうか? 夏の暑い日なんかはかえって暑くてヤケドするのではないかと思いますが。


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