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アートに説明は必要ではないと思っている

おはようございます。
アートに説明は必要かどうかというお話です。
作家が言語化することと、鑑賞者がその言語化を受け取ることと、第三者(批評家、キュレーター、学芸員)によるものの3種類から考えていきます。

作家が言語化することは、現在のアート界では必須の事項になっています。ロジックを明瞭にし、文脈のいずれの位置に存在しているのかを明示で来て初めてアートの歴史参加資格列に入れるという状況です。
これは西洋的思考で、ロジックさえわかれば後続者も真似がしやすく、段階を経て高見に登れるというもので、選ばれしもののみに資格を与えるのではなくすべての人間に参加資格を与えられるという公平平等そして、より多くの人間に機会を提供することでより早く効率よく進化を遂げられるという合理的な精神に基づいているものです。一見素晴らしい考えですが、裏返せば勇気や才を持たざる者には参加資格は与えられていないということになります、拳闘大会のようなもので参加資格は自由と書かれていても腕に自信のある者のみが参加できるのである意味差別的ともいえます。
またアートの布教という意味でも、言語化は聖書、作品はイコンとしての意味合いがあるのでアートを布教するためにも言語化は必要不可欠になりました。アーメン。
ただ、ビジュアルアートと言語は決定的に違うメディアであるので、作品と言語説明が完全に一致することはなく、恣意性がのこるので言葉が巧みな人ほど作品が成立していると勘違いさせることも可能。
クーンズがその世界の権威で神であろう。
結論:現時点で作家が作品をロジックをもって言語化するのは布教活動として必須である。

では鑑賞者が説明を必要とするのかどうか。
説明とはアーティストのステートメント、あるいはキャプションによるものとしよう。ステートメントは第一の作家の作品の言語化(部分)であり、キャプションは学芸員などの説明ということとします。
鑑賞者に与えられるのは作品、作品を照らす光と空間、空気を含む美術館やギャラリーなど、タイトル、製作年、メディア、収蔵美術館あるいはコレクター名、キュレーターによる任意の配置などなど。
鑑賞者が説明を必要とするかどうか→人による。ということになりましょう。鑑賞は自由であることが楽しいと思う私は考えることが好きで知識があるがゆえに思考のリンクを自由に操作できる。作品を一方向から「こう見ると楽しいよ」と教えられる方が楽しい、教科書的に正誤があるという方が安心という場合は説明があった方がいい。
鑑賞者なくして作品は成り立たないが、鑑賞者がどう読むか迄をコントロールするかどうかは作者次第かもしれない。
結論:説明がいる人もいらない人もいる。

第三者(批評家、キュレーター、学芸員)の場合はどうか。
作家の私としては必要であると答える。鑑賞者としての私は不要だと答える。
作家としては作品から鑑賞者に影響を与えたいと思っているし、影響はより多くより鋭くしたいと思っている。批評も講評もいずれもわたしの外側にあるもので、彼らからの言葉は世界の私以外の部分を担っているために鋭い刃をもって私をえぐる場合もあるし、私を加工する場合もある、私を強化する場合もあるし、私を別の場所へ運ぶ場合もある。私という点を引き延ばしてくれる功労者である、感謝以外の感想が出てこない。ありがとうございます。
鑑賞者としては過剰な言語化によって鑑賞の方向を一定に定められることは避けたい、自由に誤読し満足したいので、頼むからほっておいてくれ、と思っている。必要なら聞くからね。
結論:必要であるし、不必要である。

思いを下書きなく書き作れば矛盾だらけの文章になってしまった。
わたし自身は言語を自由に操れる技術を持っていない。
言語は不自由であるから作品を作っているわけであり、作品が作品のまま自由に漂うには言語化はしたくない。
しかし、言語化することで見えるものは確実にあり、作品と私に与える影響はとんでもなく膨大だということも気が付いた。
言語化しないということは布教ができないということです。
ファンを増やしたければ、アートで生きていくのならば聖書(言語化)+イコン(作品)をセットで持ち歩かなければいけない。
現代の戦略フォーマットの基礎というものはそういうものなのだ。


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