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ホー・ツーニェン「百鬼夜行」、ニットキャップシアター『チェーホフも鳥の名前』

職場の事務所。たまたまその場に居合わせた人に「明日、名古屋に行くんですよね」と私は話した。その人は私と同じ集落に住んでいる人で、翌日は全国的に雪予報が出ている日だった。その人は勿論、「大丈夫?気を付けて行きやー」と言った。

翌日、京都駅に朝早くから出発する名古屋駅の高速バスに乗る。バスが出発する時点で名神高速道路は通行止めになっており、新名神高速道路を通る為、到着時間が遅れる、とバスの運転手さんからアナウンスがあった。さらに出発前には、新名神も通行止めになるのは時間の問題で、最悪通行止めになったら京都まで引き返すと説明され、希望者には払い戻しを行う事も伝えられた。この時点で、それらを全て了承した上での条件付きの運行になったのだ。私は、この状況なら電車もバスも条件は変わらないように思えたので、引き返すことになったら、そのまま自宅に帰れば良いと考え、そのままバスで名古屋に向かう事にした。

名神が通行止めになった関係で、新名神を走る車の量はいつもより多いように感じる。出発前に運転手さんから条件付きの運行であることが説明された後、結局このバスを降りた人は2~3人で大半の人はそのままバスで出発することを選んだ。
2時間半ほどの運行で、あと30分程で到着するだろうと思われた。その時、バスの動きが完全に止まった。周りの車も完全に止まっており、渋滞にはまったようだった。しばらくすると、サイレンのような音が聞こえ、その車の電光掲示板には「事故発生」と書かれていた。結局、私が乗ったバスはそのまま3時間ほど動かなかった。その後、バスは休憩を挟んで名古屋駅に昼過ぎに到着した。
いつ動くかも分からない車内の中で、乗っている人たちの様子が徐々に変化していった事が個人的に面白かった。近くに座っていたであろう若い男性3人のグループは当初は静かな様子だった。しかし、バスが完全に止まってから30分ほどすると話し声が聞こえ始め、やがてその声量も大きくなってきた。最終的にはイヤホン無しの状態で動画を見始めたのだが、3人のうちの1人がその時、「ちょっと、落ち着こう。静かにしよう。」と言ったのが、面白かった。だいたいこのような状況になると、その場に居合わせた他人が「うるさいのよ!静かにして!」と怒って、その場の空気がズンと重くなるのが、よくあるパターンなのだが、今回はそうではなかった。
災害発生時ほど緊迫した状況ではないが、今回の状況もある種の緊急事態で、その状況下の中で興奮状態になってしまう事は多々ある。しかし、今回そのような人の変化を間近に感じる事が出来たのは、良い収穫だった。

結局、名古屋に到着した時には午後1時を過ぎていた。急ぎ足で電車に乗って豊田市に向かう。豊田市美術館で開催されているホー・ツーニェン「百鬼夜行」が今回の目的だ。しかし、既に展示を見た人からは「旅館アポリア」を見に行くことをおススメされた為、先に「旅館アポリア」の会場である喜楽亭に向かった。

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会場に到着し、「波」「風」「虚無」「子どもたち」の4部屋からなる映像作品を見る。昨年、京都芸術センターで開催された「ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声」を鑑賞した際に、展示構成であったり、映像の使い方など、参考になる所が沢山あった。今回もそれは同様で、「なるほど…」と思わず感じる展示の流れや、作品配置だった。
しっかりと4つの部屋の映像作品を堪能し、喜楽亭を出ようと出口で靴を履いていた時、後ろから聞いた事のある声が聞こえた。後ろを振り返ると、そこに同じ大学院のゼミに所属している人がいた。事前に日程を合わせた訳でもなく偶然会った為、お互い「まさか、こんな所で会うなんて!」と驚いた。

彼女も私と同様に、今から豊田市美術館に行く予定だったので、一緒に向かった。時刻は閉館時間の約1時間前。閉館前の駆け込み鑑賞を行う。偶然とは言え、誰かとバッタリ出会うのは大変嬉しく、美術館に向かう道中は話が絶えなかった。

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チケットを購入した際に、映像を全部見ると70分ある、と係の人に説明された。その時点であと1時間後には閉館する時間だった為、所々飛ばし飛ばしで映像作品を見る。
閉館時間まで作品を鑑賞し、ゼミ生の人と一緒に名古屋まで帰る。その道中、「ホー・ツーニェンは演出が良いよね」という話で盛り上がる。確かに、私が初めてホー・ツーニェンの作品を鑑賞したのは2018年のTPAMで上演された「一頭あるいは数頭のトラ」であった。当時はなんとなく見ていたので、何故これが舞台芸術のプログラムの中で上演されているのか、考えてもいなかった。しかし、今考えてみると、いわゆる演出のツボを確実に抑えている点では、これは立派なパフォーマンスであり舞台芸術なのかもしれない。とは言え、私は舞台芸術の文脈でホー・ツーニェンにおける演出論を語る気なんてさらさらない。
https://www.tpam.or.jp/program/2018/?program=one-or-several-tigers

「旅館アポリア」では、それぞれの部屋で第二次世界大戦時の喜楽亭の女将、喜楽亭に宿泊した神風特攻隊の草薙隊、京都学派の学者、小津安二郎と横山隆一の記録等から映像作品が展開されている。
私はそれらの作品を鑑賞し終えた時に、ふと「皮肉だなぁ」と感じた。それは第二次世界大戦の日本にかなり突っ込んだ作品内容であるにも関わらず、良い意味でバッシングが酷くないからだ。きっとこれが日本人が作った作品だったら、同じような状況ではないと思う。同じ作品でも外国人が作っていたら、それはどこかで他人事のようなものになるのだろうか?私の中で何とも言えない違和感とむず痒さを感じた。

次の日、私は前々から気になっていた演劇を見に行った。
ニットキャップシアターの『チェーホフも鳥の名前』である。この作品はサハリン島を舞台にロシア人、日本人、朝鮮人、ニヴフやアイヌなどの北方民族などの様々な人々が、戦争や国家間の思惑に翻弄されながらも生きていく様子を描いた作品だ。作演を担当したごまのはえは、私の学部時代の恩師であり、学生の時には演技の授業も受けたことがある。学生でも親しみやすい雰囲気を持ちつつも、時々毒の効いた言葉を言う人柄が私は大好きだった。私は、過去に何度かごまのはえが作演を担当した舞台を鑑賞した事はあった。しかし、田舎の集落に移住してから中々演劇を見る機会も減った事もあり、ごまのはえを始めとするニットキャップシアターのささやかでナチュラルな演劇を見てみたい、と思ったのだ。

前日まで見に行くかどうか、悩んでいた私であったが、当日の朝、起きた時には見に行こう、と自然と決意していた。久しぶりに伊丹のアイホールまで行くことにドキドキしながら、電車を乗り継いで、伊丹に向かう。
アイホールに到着すると、受付を済ませて、客席に座った。想像よりもずっと近い距離に舞台があり、この舞台で作品が上演されるのかと思うとゾクゾクした。客席に置かれた当日パンフレットには、1幕から4幕それぞれの登場人物達の人物相関図が書かれていた。1度でもアントン・チェーホフの戯曲を読んだ人は分かると思うが、チェーホフの戯曲は、登場人物の名前が長く覚えられない上に愛称まで出てくる。それらが全てごちゃ混ぜになった状態で物語が進んでいく為、一体どこの誰が何なのか、分からないまま読み進める事が多い。だからこそ、場面ごとの人物相関図がパンフレットに記載されているのは、とても有難いことなのだ。勿論、『チェーホフも鳥の名前』にはアントン・チェーホフが登場するが、物語自体がアントン・チェーホフの構造を則って執筆された訳ではない。

1幕、1890年のロシア領時代から始まるこの作品は4幕の終戦から約30年経った1960年頃までのサハリン(樺太)を舞台とした人々の生活模様が描かれる。
1幕はロシア領時代にはアントン・チェーホフがサハリンを訪れ、その土地で暮らす人々との交流が行われた。素敵な演劇を見ている感覚になりながらも、少し違和感を残すのがニットキャップシアターらしい。2幕の日本領時代には農場を営む日本人家族(しかし娘さんは1幕で登場したロシア人女性と日本人男性のハーフ)と樺太にやって来た朝鮮人の家族、先住民族であるニヴフの家族、宮沢賢治が登場し、それぞれが様々な形で交わっていく。網目のように登場人物の交流が進んでいく様子に、こんな緻密で優しい戯曲を書いて、それを舞台で上演する事だけでも、大変だっただろうと感じ、感動した。

休憩後、1945年の終戦直後の場面と移り変わる。樺太の先住民族であるが、今は日本兵として戦っている男性。彼は自分が何人なのか、知りたくて必死に日本兵として戦った末、シベリアで捕虜となり、日本に戻ってくる。8月15日以降の戦闘シーンで先住民の日本兵が日本人の日本兵を撃つシーンがあった。私はそのシーンで何故、先住民族が日本人の日本兵を殺したのか、理解が出来なかった。一方、身重の朝鮮人女性は同じ土地に住む日本人と一緒に逃げる予定だったが、朝鮮人の旦那さんによって日本人とは別の場所に逃げる事になった。朝鮮人女性の迫りくる恐怖心や何とも言えない不安が襲う演技に、見ている私も暗い気持ちで押しつぶされそうになる。心の中でふと、日本人とか朝鮮人とか関係ないでしょ、と私は思わずにいられなかった。
暗く重いシーンが続く中で、4幕へと舞台が変化する。終戦から約30年、サハリンを再訪する女性。彼女は3幕で登場した身重の朝鮮人のお腹にいた子だった。日本への引き揚げ船に日本人のフリをして乗り(朝鮮人だとバレると殺されるかもしれないから)、そのまま彼女は日本人として日本で暮らしてきたのだ。
引き揚げ船に乗る際に、離れ離れになってしまった親子。自らの母親に会いたい気持ちを胸にサハリンを訪れ、食堂へ向かうと、2幕で農場を運営していた日本人家族の娘さん(娘と言ってもかなり年配な女性)がいた。彼女は「今日は来れないみたいなの」と説明する。
2人はその後、いままで自分に起こった事を話し出す。すると、日本人家族の娘さんは「私はねぇ、ソ連人になったのよぉ」と言った。それに追い打ちをかけるようにサハリン再訪を調整したコーディネーターらしき人が民族間の交流として、2人が握手している写真を撮ろうとする。終戦直後のバタバタさえなければ、この2人は家族ぐるみで交流のある仲であったはずだ。それなのに、どうして日本人とソ連人として分けられるのだろう。そんな違和感が生まれる。しかし、日常でその違和感を作り出しているのは、まぎれもなく私達であることも同時に自覚した。

表現として生まれてきてしまった作品は目の前にあるのに、それが外国人が作ったものだったら、どこか他人事になってしまう。多くの民族や人種がいるのに、~人であること、ないことが重要かのように扱われる。あまりの違和感を感じたと同時に、私達は無意識にそのことについて意識してしまうようになっている。後日、そんな話題を大学院の人達と話した時に、福岡伸一の『世界は分けてもわからない』を教えてもらった。

分ける、分けないの話で言ったら、先日ポットキャストで聞いた「領空侵犯のススメ」でも似たような話をしていた。

私は早速、『世界は分けてもわからない』をメルカリで注文した。ついさっき、それがポストの中に届いたようで、部屋を出て郵便ポストを見に行った。
1階ではカフェのお客さんとして、1~2歳ぐらいの女の子とそのご家族が来ていた。その人達は、最近この集落に引っ越してきた人で、今週だけでも2回来てくれている。丁度、ポストから届いた本を持って自分の部屋に戻ろうとした時、女の子が無邪気に私の方に寄ってきた。恥ずかしいのか、近付いては、家族のもとに戻り、また近付いてくる。

年末年始にかけて読んでいた贈与論。一瞬、贈与論について分かった気になっていた。しかし、デヴィッド・グレーバーなど他の書籍を読んでいくうちに、だんだんと分からなくなってきた。

この「分からない」という感覚は決して悪いものではないと思う。ネットワークとして形成されかかっていたものが、新しい点が増えたことによってバラけただけにすぎないからだ。
最近は贈与論だけでなく、自分の周りの色んな事が分かっていたようで、分からなくなってきている。これはきっといい機会なのだ。

無邪気に寄ってきた小さな女の子は私がどこの誰でどんな人なんか関係ない。ただ自らの目の前に現れた新しいものに対して、純粋に近付いているだけだ。社会的立場とか、人間的建前とか、一旦そんなことは取っ払って、自らの目の前に広がる世界を真っすぐに受け入れていくことを楽しみたい。そんな事を小さい女の子から教えてもらった。
昨晩から降り続いた雪で、家の周りは一面真っ白だ。雪からの光の反射で、今日は一段と部屋の中が明るい。

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