「ランブリングデザイン」に関する諸研究の紹介
突然ですが、最近ぶらぶらしていますか。月曜日から金曜日までgoogleカレンダーに指示されるように動き、土曜日や日曜日もスケジュールが綿密に組まれている。絶えず頭の中では「次のタスク」がやってきて、本来は空白でなにもない時間でも、脳はキマっていて常にタスクのことを考えている。逆に無目的であることに気持ち悪さを感じてしまう皆さま。僕もそういうときあります。
ところで最近のデザイン研究では、あえて無目的に「ぶらぶら」と振舞うことによって何が得られるかということが議論されるようになっています。前回の記事では「パーソンセンタードデザイン」を扱いましたが、今回は「ランブリングデザイン運動(Rambling Design Activity)」を紹介します。きっとあなたもぶらぶらしたくなる(はず)!
ランブリングとは?
「ランブリング」とは聞きなれないですが、要はぶらぶら歩くアクティビティを指します。とにかく外に出て、無目的に自分が気が赴くままにぶらぶらと振舞ってみるものです。気になる虫がいたら追いかけてもよいし、落ち着きたかったら喫茶店に入ってもよい。とにもかくにもふらっと歩いてみる。それがランブリングです。特にヨーロッパ方面で趣味とされる方が多いのだとか。
「歩くこと」が目的になるウォーキングとは異なり、ランブリングにおける「歩くこと」とはただの手段になります。とはいえずっと無目的でほっつき歩っているわけではありません。ぶらぶらしている中で、小さい目的が浮きあがってくることがあるのです。たとえば「気になる虫を見つけた!(追いかけたい)」「それにしても疲れたな(落ち着けそうな喫茶店はないかな)」も小さな目的の浮上です。究極的にいえば「この十字路は右に曲がりたい」も目的の浮上。つまり無目的でぶらぶら歩いていくうちに、自己の内側で、小さな「目的」が浮上していくことに目を向けていくのがランブリングの楽しさといえます。
ちなみに最近の西村は、土日はずーっと都内や地方でランブリングをしています。先日は代々木から大手町までぶらぶら歩きましたし、昨日は品川から築地市場まで歩きました。歩く日は14キロくらい歩いてます。会社の同僚にめちゃくちゃ引かれたことがあるのですが。無目的にぶらぶらしている状態だからこそ、町や土地のいろんなことに気づいて感受性が豊かになって楽しくなってしまっています。散歩も研究です(たぶん)。
ランブリングデザイン運動とは?
最近のデザイン学ではこのランブリングという営みをデザインに活かせるのではないか?という議論が進んでいます。その研究チームは、日本デザイン学会の情報デザイン研究部会(Info-D)に所属されている方々です。
特に中心人物となっているのが、札幌市立大学デザイン学部の横溝賢先生です。ランブリングデザインの実践と研究をこの数年間続けられており、数多くの発表が存在しています。日本デザイン学会第66回春季研究発表大会での『ランブリングデザイン運動が実践者に与える影響』では、ランブリングデザインについて次のように概念を定義していました。
ランブリングデザインとはどういうプロセスなのか?という点について、横溝先生は①ぶらついて/見る、②見て/わかろうとする、③見せて/語ろうとするという行為としてシンプルにまとめられています。他にもランブリングデザインを説明されたモデルはありますが、個人的には2020年バージョンの方が分かりやすいと感じています。
①ぶらついて/見るとは、その名の通りぶらぶらすることです。個々人が生きている生活世界の生々しい現場に触れていく試みといえます(知覚する)。
②見て/わかろうとするは、自分がその現場で感じたことを他者と語り合うことで、自分たちが見ている現場を生活世界の一部にしていく試みといえます(内省する/物語る)。
③見せて/語ろうとするは、この①・②の活動で得られた考えやアイデアを統合して未来の可能性を思い描いたり、物語ったりする行為と考えられます(思い描く/可能性を呈示する)
ここまではなかなか概念的で分かりづらいと思いますが、横溝先生の事例を知ることで大体のものが掴めるのではないかと思います。
日本デザイン学会が発刊している『デザイン学研究特集号』の27巻2号に掲載された横溝先生の「ランブリングデザイン運動のすすめー青森県浪岡地区におけるご当地包装紙のデザインプロジェクトを事例として」の論文では、青森県浪岡地区における商店街のご当地包装紙をリデザインするというプロジェクトにこのランブリングデザインが応用されていたことが記されていました。
①ぶらついて/見る
市民と連携して浪岡地区のご当地包装紙をデザインするにあたって、横溝先生らが実施したのは、まずは浪岡地区のランブリング(2018年9月7日)。「浪岡町をあてもなくぶらつき、人々の営みやその現場を支える自然環境や文化、歴史との関連を探る」(横溝、2020)ことを通じて翌日のワークショップのヒントを得ようとしています。具体的には横溝先生+学生2人+市の職員3人の計6人で1日ただ浪岡地区をぶらぶらするわけです。
リサーチ段階としてのランブリング行うために特に準備は必要なく、しいて言うなら「良く寝て現場で動ける身体づくりと、現場で表現する道具」を用意したと語っています(横溝 2020)。それにしてもこの論文に記述されている現場体験のリアリティの豊かさたるや。
②見て/わかろうとする
9月7日に一日中ランブリングを行った後に、町の旅館に戻ってノートを開いて翌日のワークショップに向けた作戦会議。この会議についての進め方については回想⇒わかろうとする過程で進められています(横溝, 2020)。
まちで出会ったさまざまな人や環境などの事象を記録したノートを見なが ら、「その時、その場所でどんな情感を抱いたのか?その気持ちはどんな要因によって生起したのか?」を回想(analysis)する
自分が見て、感じたことの意味の連関をわかろう(synthesis)とした
この論文の好きな箇所は、このランブリングで訪れた城で感じた「風」や「林檎」から、翌日に実施する包装紙のデザインに向けたワークショップの進め方を構想していく過程についての記述です。結果的にこの振り返りを通して「林檎樹のフレームワーク」を思いつくわけですが、そこに至る過程はめちゃくちゃ面白いので、気になる方は以下の論文で味わってください。
翌日9月8日に市民を巻き込んだワークショップが開催されました。このワークショップでは、まず前日にぶらついて/見た結果として「私が見た浪岡町の生活世界」が、前日の旅館での会議で形成された林檎樹フレームワークと併せて報告されました。
この見て/わかろうとするフェーズにおいて重要なのは、以下のような「見方が増えた」というポジティブな反応が出ていたことだと考えます。特に学生は浪岡地区を訪問するのは初めてであり、「初訪問」の「学生」が浪岡地区の生活世界をどう捉えたかを語られることは、地元の方にとってもなかなか新鮮なことのように感じます。
③見せて/語ろうとする
その上で、住民らによる見せて/語ろうとするのフェーズです。参加者(住民)の方に「個々が見ている浪岡町の生活世界」を語って貰い、自分と他者の捉えている浪岡町の相違を比較する試みをした上で、包装紙のアイデアをスケッチする活動が行われたといいます(横溝 2020)。ここで得られたスケッチは実際の包装紙のデザインに活かされたといいます。
ランブリングデザインが与えてくれる示唆
ここまでが近年のデザイン学の先端的な議論としての「ランブリングデザイン」について、札幌市立大学の横溝先生の実践に照らし合わせて紹介しました。このランブリングデザインは、「問題が与えられていない状況においてデザインはどうあるべきか」を考えるための種になる点を横溝(2020)では展望されていました。
産業社会におけるデザインは「問題が与えられていること」が多いです。横溝先生が考えている産業社会とは「時間や空間、量や距離を数値化するこ とで、仕事や学校、医療をサービスとして制度化する」社会のことを指しています(横溝 2020)。
たしかにデザインの実務においても、A/BテストなどでWebサイトを最適化したり、数値目標が明確化され、制度化されたされた課題を「解く」ことが重要と考えられがちです。
しかしコミュニティデザインなどの、人々の豊かさを扱うようなデザイン対象では「何をKPIとすれば良いか」「何がその対象にとっての豊かさであるか」などは定義することはなかなか難しいものがあります。もしもそうした豊かさを見誤ったら、まったく使用者の生活世界に受け入れられがたい自己満足的なサービスやプロダクトを形成することにもなりかねないので注意が必要です。
またKPIを達成するためにきっちりかっちりスプリントをまわすこと(たとえば月に1度リサーチスプリントをまわすのようなルールを決めて着実に遂行すること)などの制約は、人々の豊かさ、価値観、生活世界のいとなみを、つい「自分が既に知っている」「わかりやすい」フレームに矮小化して捉えてしまいがちになるような課題があるようにも思います。
個人的にはデザインの前提となる仮説生成を質的なリサーチとして行い、その後の仮説検証を量的調査として行い、この二つを高速でまわすのが良いという価値観はかなり危険な落とし穴が潜んでいると考えていて。仮説生成の段階で検証しやすい(解きやすい)フレームにまとめてしまうことで「どこかありふれたもの」に到達するリスクもあります。そもそも質的なリサーチってインタビューしたり観察すりゃいいっていう話じゃなく、「自分は語り手の生活世界に没入できているか」といった調査者自身の視点を省察しながら機微を捉えていかねばならない、極めて奥の深い営みなのです。
何が価値なのか、なにが豊かさなのか極めて不明であり、解きやすい問題が与えられていない状況でのデザインについて、ランブリングデザインでは「デザインを届ける対象の生活世界」に接近して、じっくり物事を見ることが大事であるというスタンスを取っており、目的性を脇に置き、全てを受け入れるべく「ランブリング(目的を持たずにぶらぶらする)」ことを提案しているのです。
実際に自分が無目的な状態に身を置くことで、対象となるユーザーのいる環境を理解し、そのコミュニティで起こっていること全てを受け入れる態度が養われます。自分が「野生のリサーチャー」として振る舞っているときはこの態度をとにかく大事にしています。
なおランブリングデザインに関する実践事例は、札幌市立大学の横溝研究室を中心として多く存在しています。
札幌市立大学だけでなく、公立はこだて未来大学でも、デザイナーが生活者としてコミュニティに参加し、地域を変容させていく過程を扱うプロジェクトとしての「デザイン、街に出る」プロジェクトが取り組まれています(原田、2016)。僕の中では北海道のデザイン研究者はとにかく「ぶらぶら」と「まちに出る(フィールドワークする)」のが好きな方が多い印象です。もしこうした事柄にご関心ある方はぜひ、札幌市立大学やはこだて未来大学のデザイン研究プロジェクトもチェックしてみるとよいのではないでしょうか。
またデザイン系だけでなく、人工知能学会でも「街ぶら」を伴う研究も見られており、例えば諏訪ら(2017)では街をぶらぶら歩く行為から人間が次に進む道を選択する行為の身体性を捉えたりする研究も見られています。ほかにもまち歩きではないですが、まちや人々と屋外でカレーをつくって食べることを通して豊かさだとか気持ちの良い交わりとかを考えあうカレーキャラバンと呼ばれる手法(江口 2018)も同様の発想に基づく研究方法論であると考えます。
合目的的ではない、ぶらぶらとした振る舞いから始まる「ランブリングデザイン」。個人的には企業内導入する上では課題は多いです。例えばぶらぶらするという手法を特に企業組織で理解してもらうか。ROIが高い行為であることをどのように知ってもらうか。ぶらぶらを業務に含むことをどう組織に説明するかなどは大いに課題はあります。でもユーザーの特性を掴むために「そのユーザーはどのような生活世界で生きているのか」を理解することは抜群の効果を発揮することも事実です。
何よりリサーチじゃなくても、週末の趣味としてランブリングは非常に面白いものです。ぜひいつか皆さんともぶらぶらできることを楽しみにしています!
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