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自己肯定感なんて、低くていい。〜東大合格できないと諦めて、それでも勉強していた馬鹿の話〜

自己肯定感」という言葉があります。
これ、みなさんはどういう意味の言葉だが知っていますか?

「自分を肯定できている度合い」
「自分はがんばったらもしかしたら何かできるんじゃないかという自信」
「自分を信じている割合」

まあ多くの場合、そういう言葉を指して、「自己肯定感」という言葉で表現することが多いですね。

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そしてやはり一般的には、これが高い方がいいと思われていると思います。何事にも、自己肯定感が高いほうが挑戦できる、と。
「自分はプロ野球選手になれる!」とか「東大に合格できる!」とか、そんな風に考えて、何か大きなことを為すことができる。だから、自己肯定感が高いほうがいい、と。

そしてそれに対して、自己肯定感が低い人っていうのは、結構な割合でいますよね。自分のことを肯定できないとか、自分なんかできないやつだとか、ダメなヤツだと思っている人というのは、Twitterで検索したらごまんと出てきます。

そのような人間は、何か挑戦することが難しい。だから、“自己肯定感を高めることが必要だ”ということが、昨今は取り沙汰されているような気がします。

ただ僕、これに対してすっごく違和感があるんですよね。

自己肯定感って、高くなければいけないのでしょうか?
本当に、自己肯定感が高い人が成功を掴めるのでしょうか?


どうして僕はそのような疑問を持ったのかと言いますと、先日、飲み会の席で、こんな話になったのです。

そのメンバーは東大生だったのですが、メンバーの中で、僕と、阿修羅さん(5浪して東大理3に合格した人)は、“俺たちって自己肯定感は高くないよね”という結論に落ち着いたのです。

「俺ら、自分のことを肯定できた経験なんて、人生の中で2回か3回ぐらいしかない」
「俺らは別に自己肯定感は高くない。だけど結果として、東大を受験したし、合格することもできた。これは一体、どうしてなんだろうね?」

という話をしたのです。

そんなふとした疑問から、今日は、自己肯定感が高いとか低いとか、それは良いのか悪いのかなど、それらについて語っていきたいと思います。

○人間は、自己肯定感が高くなるようにできている?

結論から言いますと、僕は自己肯定感は“高くなくていい”と思うんです。

たしかに、自分を肯定していたり自信があったりする人の方が、何事にもガンガン進めていけるというのは正しいと思います。

実は、面白い学説があります。人間というのは、“自信が付くように作られている”というのが科学的に証明されているんです。

例えば、「自分は平均以上の能力を持っているか?」と問うと、「平均以上の能力を持っています」答える人は、7割を超えると言われているんです。おかしな話ですね。
半分以上の人間が、人よりも自分はやさしい人間であると思っているというのは、数字のトリックから言うと絶対にありえない話なんですけどね。

特に、アメリカ人とかヨーロッパの人々というのは、そのように答える率が高いと言われていますし、日本人も実は、「平均以上だ」と答える場合が多いのだとか。
「え?日本人はそんなこと言わないんじゃない?」
と考える人もいるかもしれませんし、たしかに、日本人は「能力」という点においては、自己評価が低い人が多いです。
しかし日本人は、「やさしさ」とか「謙虚さ」とか「協調性」とか、そういう言語化・数値化できない物事に関しては「平均以上だ」「普通よりも上だ」と言う人が大半だったりします。

つまり、人間というのは、自己肯定感が高くなるように作られているんです

一説によると、必要以上に自信を持つような精神構造になっていることによって、「自分は能力が高いから、こんなことをやってみよう」「こういうことに挑戦してみよう」と、いろんなことにチャレンジできるから、自分の能力を高く見積もる傾向にあるのだとか。

○自己肯定感が高い人が、成功から遠ざかってしまうことがある

で、です。僕なんかはここで、考えるんです。

本当に、自己肯定感が高い人って成功できんのかなあ?と。

つまり自己肯定感が高くて、一歩踏み出せる人間というのは、成功するのだろうか?と。

もちろん、成功回数は多くなることでしょう。
当然です。普通より挑戦する回数が多いんですから、成功する回数だって多くなります。
でも実は、「失敗する割合」自体は、普通よりも高くなってしまうんじゃないかって思うんです。

だって、自分のことを必要以上に能力が高いって考えてるんですよ?
そういう、「謙虚じゃない人」って、成功掴みにくいんじゃないですかね?
謙虚じゃない人って、自分のウィークポイント(ダメな部分)を見つめ直す機会に恵まれません。傲慢だからこそ、すごく単純な自分の欠点に気づけないという落とし穴にハマってしまう。

また、「セルフハンディキャッピング」というものもあります。これは、自信があって、自分の能力が高いと考えている人ほど、失敗を必要以上に怖がり、自分で自分の努力や成功に「ブロック」をかけてしまう行為です。頭がよくて成績がいい人ほど、「いやー昨日全然勉強してないわー」と周りに言いたくなったり、「3時間しか寝れなかったんだよねー」と吹聴してしまったり。
わざと自分から不利な状態に身を置いて、何かあったときの言い訳を作ってしまうこともあります。

誤解がないように言っておきますが、もちろん先ほど言ったように、自己肯定感の良さもあります。挑戦しようとするときに、人間は自己肯定感が高い方が挑戦しやすいです。そして挑戦するということは、非常に良いことです。挑戦しなければ成功もありませんから。
100回失敗するとしても1回成功すればよくて、初めの1回で成功しようとしなくても、200回、300回挑戦して1回成功したって、それでいいわけですね。
成功者の多くは、「成功するまで止めなかったから成功できた」と語っています。つまりは、成功するまで止めない程の挑戦ができる人間が成功していて、その成功の裏側には、自己肯定感がある。これは否定できない事実だと思います。

でも、自己肯定感が高くないと成功できないわけじゃないんです。
自己肯定感が高いことにはメリットもデメリットもある。自己肯定感が高いからといって、成功を掴みやすいわけじゃないのです。
それなのに、「自己肯定感が低い若者が多い!」とか「自己肯定感が必要だ!」とか、そんな言葉に騙されて、「自己肯定感が低い自分」を肯定できないで苦しんでいる人って、割と多いんじゃないでしょうか。
僕もそうでした。自己肯定感が低くて、自分なんかマジで嫌いで死ねばいいなと思っていたし今も割と思っているんですが、でもそんな僕でも、まあなんとかここまで生きることができているわけで。

だから僕は、自己肯定感なんて、高くなくたっていいんだぜ、というのを、みなさんにお伝えしなければと思っているんです。

○「諦めながら勉強していた」って話

さて、では冒頭の飲み会の話に戻りましょう。
2回失敗しても東大受験をやめなかった元偏差値35の僕と、5回失敗しても東大の理3に挑戦し続けた阿修羅さん。

僕らは自己肯定感が低いわけですが、なんで自己肯定感が低いのに東大なんて受けて、何度落ちても挑戦を続けたのか、これを話あったわけです。

で、結論として落ち着いたのは、俺も阿修羅さんも、東大に受かると思って勉強していなかったのです。
もちろん、受かったらいいなと思っていましたよ。東大を受けるわけですから、ちゃんと努力はしていた。

ですが、心の奥底では諦めていた。
諦めながら、勉強していたのです。

もちろん、万が一には受かるだろうと思っていましたが、僕と阿修羅は、そういうギャンブルだと思って勉強していたんです。
そう、阿修羅さんは「ギャンブルだ」って言ってました。受験は、ギャンブルだと。
僕も同じ気持ちでした。10回やったら1回勝てるかどうか。まあ、そんなくらいの勝負かなと思って、僕は勉強していました。

この精神性は、多分わかる人にはわかるけど、わからない人にはわからないと思います。当然です、「落ちるかもしれないのに頑張る」なんて、正気の沙汰じゃないと思われても仕方ないです。
僕も彼も、そういう馬鹿なんだと思います。

でも世の中には、実は意外と、そういうバカが多いんです。
例えば、カイジなどのギャンブル漫画がありますが、僕は思うのですけども、そのギャンブル漫画の主人公は、ギャンブルに勝てると思っていないんですよね。全く思っていないけど、ギャンブルに挑んで、そのギャンブルに勝っていく……、そういうストーリーで、それが読む人の心を打っている。

自己肯定感が低い人間だった場合、自分の目には成功率が低く映ってしまいます。
「これは10%なんじゃないか、5%、1%、0.1%なんじゃないか」と。
それで、逆側の“失敗する確率”である99.9%というのを見てしまって、「この確率で落ちてしまうんだな」と思って、足がすくむことがあります。

ですが、月並みの表現ですが、人生は冒険です。人生はギャンブルです
人生をギャンブルだと考えている人は、自己肯定感が低かったとしてもそのギャンブルにベットしようとして、努力できます。

そのときの精神構造を分析してみると、諦めているんです
受かるとは思っていない。失敗する可能性が高いと思っている。
でも、それでも全力を尽くそうとする。
失敗すると心の中では諦めているのにもかかわらず、それでも全力でギャンブルをしようと思っています。

その裏にあるのは、一体なんなのか。
僕はそれは、おそらく自分が抱いた願望、自分が持った夢に対して、真摯に向き合おうとする姿勢そのものなのだと思います。

諦めているが、それでも全力を尽くそうとする。
それは、自分の夢に対して、不敬がないように。
自分の抱いた夢に対して、真摯であろうとして努力する。
成功するかしないか分からないものに対して、きちんとベットして、全力で戦う。
これが、自己肯定感が低い人が成功を掴む戦略です。

○人間は、いつか敗れ去る

僕は、努力というのは2種類あると思っています。
「結果が見えている努力」と「結果が見えていない努力」です。
結果が見えている努力というのは、これだけがんばったら、これぐらいのことはできるだろうという努力です。
今この勉強をしたら、こういう結果が得られるだろう。こうやって練習すれば、きっと報われるだろう。
そういう努力に対して頑張れる人間は、きっとかなり多いんじゃないかと思います。

一方で、結果が見えないことに対しての努力はどうでしょうか?
こちらは、多くの人間ができません。
なぜなら、ギャンブルだから。結果が見えていないから、頑張れない。
でも、意外と「ギャンブルだ」と割り切ると、成功が掴めるものです。
自己肯定感が低くて、謙虚でも、挑戦することができるようになるから、セルフハンディキャップも傲慢さ故の失敗もなく、ただ粛々と、努力を続けることができるわけです。

何が言いたいかといえば、自己肯定感が低いなら、ギャンブラーになればいいってことです。
もしかしたら失敗するかもしれないし、自分には能力は低いかもしれないし、成功なんて掴めないかもしれない。
でも、だからと言って、それはあなたの夢を諦める理由にはならないんです。

人間は、いつか死にます。いつか灰になってこの世から消えます。
病気で生きるか死ぬかのことを「闘病生活」なんて呼ぶくらいですから、言ってしまえば、生は「成功」であり「勝利」で、死は「失敗」であり「敗北」です。
そういう意味で言うなら、人間は、いつか失敗し、敗北します。敗れ去ることが運命付けられています。

でもだからといって、それが今死ぬ理由にはなりませんよね。

それと同じで、失敗するかもしれないからといって、今の自分の努力が報われないかもしれないからといって、歩みを止める理由にはならないのです。

かつて僕は、自己肯定感が低くて苦労しました。「落ちるんじゃないか」と思って死にたくなったし、「どうせ受からない」と思って止めたくなったし、「生きていても意味がない」と思って人生を終わらせたほうがいいと思っていました。

まあ、今もその本質は変わっていません。自己肯定感は低いままです。
でも、今回の飲み会を経て、こんな風に自分で言葉にしてみて、なんとなく、それでもいいのかもしれないな、と思えるようになりました。

みなさんもおんなじように、自己肯定感が低くてもいいかって思ってもらえるんなら、僕は嬉しいです。

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