邦楽評論 米津玄師
俺が「これが文学か!」と感動したのは、吉本ばななの「キッチン」を読んだ時でした。
私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。
どこのでも、どんなのでも、それが台所であれば食事をつくる場所であれば私はつらくない。
できれば機能的でよく使いこんであるといいと思う。乾いた清潔なふきんが何まいもあって白いタイルがぴかぴか輝く。ものすごくきたない台所だって、たまらなく好きだ。
床に野菜くずがちらかっていて、スリッパの裏がまっ黒になるくらい汚いそこは、異様に広いといい。ひと冬軽くこせるような食料が並ぶ巨大な冷蔵庫がそびえ立ち、その銀の扉に私はもたれかかる。油が飛び散ったガス台や、さびのついた包丁からふと目をあげると、窓には淋しく星が光る。
『キッチン』吉本ばなな著
東大の先生曰く、「文学とは、日常の当たり前のことを切り取ってその意味や価値を広げるものである」とのこと。ここでいう「当たり前」とは「台所」のことでしょう。どこの家にもあるものだけど、それを「この世で一番好きな場所」と表現して、「なんでもない当たり前のキッチン」の価値を、意味を、表現を広げているのがこの『キッチン』の冒頭だと言えるでしょう。
そして、その先生曰く、「文学とは本や小説に止まるものではなく、歌詞などもそれに当てはまる場合がある」とのこと。「だからボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したんだよ」と。
そこで行くと、僕は米津玄師というアーティストの歌詞は、まさに文学だと思います。
あなたの横顔や髪の色が
静かな机に並んで見えた
少し薄味のポテトの中
塩っけ多すぎたパスタの中
あなたがそばにいない夜の底で
嫌ってほど自分の小ささを見た
下らない諍いや涙の中
おどけて笑ったその顔の中
【米津玄師 メランコリーキッチン】
歌詞に「少し薄味のポテト」と「塩っけ多すぎたパスタ」を混ぜることによって、当たり前の情景を想起させつつ、『メランコリーキッチン』という歌の名前のイメージを作り出していきます。
誰もいないキッチン
靡かないカーテン
いえない いえないな
独りでいいやなんて
話そう声を出して
明るい未来について
間違えて凍えてもそばにいれるように
笑って笑って笑って
そうやって
きっと魔法にかかったように世界は作り変わって
この部屋に立ち込めた救えない憂鬱を 美味しそうによく噛んであなたはのみ込んだ
【米津玄師 メランコリーキッチン】
そのイメージの中で、孤独や嫉妬、「自分の小ささ」を少しずつ料理にしていき、最後に「憂鬱を美味しそうにあなたはのみ込んだ」という表現で発露させる。日常的に行う料理を、キッチンを、その意味と価値を深く、広く作り上げる。この完璧な日本語のセンスこそ、米津玄師を天才足らしめていると言えるのかもしれません。
米津玄師の曲には、他にも「食事」が登場します。
ヒッピヒッピシェイク
ダンディダンディドンで
クランベリーのジャムでも作ろうね
パンケーキと一緒に食べようね
ほら丁寧に切り分けて
ヒッピヒッピシェイク
ダンディダンディドンで
全部頬張って隠してしまえ
やがて熱さにも耐えかねて
嗚呼きみは吐き出した
【米津玄師 クランベリーとパンケーキ】
ただパンケーキのことを歌っているのに、こんなにも不安な気持ちにさせられるのはなぜなのでしょう?自分たちの中に呑み込んで隠していることが吐き出されてしまうような、そんな錯覚を覚えさせられる曲が、この「クランベリーとパンケーキ」です。
「ドーナツの穴みたいにさ
穴を穴だけ切り取れないように
あなたが本当にあること
決して証明できはしないんだな」
【米津玄師 ドーナツホール】
ドーナツの穴、という卑近な食べ物を使って「あなたが本当にあること決して証明できはしない」という言語のセンス。歌というのは曲やメロディーを好きになったあとで歌詞を好きになると言いますが、この曲が流行したのはこの独特で文学的な歌詞が聞く人の心をぐっと掴んで話さなかったからなのではないでしょうか。
米津玄師の曲が文学的な理由は「日常の一部を切り取っているから」ということのほかにもう一つあります。「歌詞が美しい」ということです。
色んな色で満ち溢れた街を歩いたって
色づかないあたしは灰色
どこへ行けばいいの?
自分の好きなように生きていけばいいって知っている
筈なのにさ
忘れちゃうんだ
いつもいつもいつも
「愛は永遠」って
誰かの誰かの誰かが言った
それがもし本当なら
いつまで苦しめばいいの?
12時を越えて
ずっと消えないものがあるなんて
お願いよ
もう消して 消して 消して 消して
【米津玄師 シンデレラグレイ】
この曲のタイトルは「シンデレラグレイ」。灰色とシンデレラ(灰被り)でダブルミーニングで、それが歌詞の隅々にまで浸透している様子がとても美しいです。
そしてこの歌詞の最大の特徴が「色色色」「いつもいつもいつも」「誰かの誰かの誰か」「消して消して消して」と何度も何度も何度も同じ言葉を繰り返しているところです。それが前面に出ているのに、不思議なことに全く気にならない。気にならないどころかそれが心地よく、美しく見えてくる。そういう素晴らしさが米津玄師の曲には現れています。
わたしにくれた
不細工な花
気に入らず突き返したのにな
あなたはどうして
何も言わないで
ひたすらに謝るのだろう
悲しくて歌を歌うような
わたしは取るに足りなくて
あなたに伝えないといけないんだ
あの花の色とその匂いを
【米津玄師 花に嵐】
色合いの表現がないのに美しい花のイメージが目の前に現れる感覚が特徴的なのがこの曲、『花に嵐』。ここまで匂って来そうなほどの花の現実感が露わになり、また心に突き刺さる「感情」の嵐がとても印象的な曲です。「悲しくて歌を歌うようなわたしは取るに足りなくて」、ありふれた言葉の羅列なのに、日本語の可能性を広げる言語のチョイスはまさに文学です。
彼のどの曲を取っても、悲しくて嬉しくて、当たり前だけど涙が出て、そして、綺麗なのです。
ここに絵やダンスをも組み合わせて表現して行く、というのがさらにすごいところです。歌詞だけで文学なのに、それに加えて色々な表現方法で誰も彼もに自分の楽曲を伝えて行くというスタイルは、どのアーティストでも真似できない領域にあるといっても過言ではないでしょう。
もう一度遠くへ行け遠くへ行けと
僕の中で誰かが歌う
どうしようもないほど熱烈に
【米津玄師 ピースサイン】
当たり前の言葉なのに、何かが心に刺さる。そして歌詞が光り輝いている。どこか遠くに行かなきゃならないと感じて、それでもどこにも行けないもどかしさ。
みなさんも、そうした文学的な世界観の洗礼を浴びたい人は、ぜひ米津玄師沼に落ちていただければと思います。
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