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偏差値35だった僕が、「才能がなくても東大に行ける」と断言できる理由。

僕は偏差値35から東大に合格したんです

と言うと、「いやいやいや、嘘でしょ笑」と言われてしまうことが多い。
だから、高校3年生の時の模試の結果を見せて、なんとか納得してもらう。

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で、それで「才能がなくても東大に行ける」と理解して貰えたかな、と思ったら、次はこんな風に言われる。

「そりゃ、君は地頭がよかったんだね」
「東大に合格できる人間は、みんな元から才能がある人だけだからね」
「少なくとも、自分には無理だな」

なるほど。

世間は「西岡壱誠」という人間だけが偏差値35から合格した程度では、「努力で才能の壁を壊せる」とは考えてくれないらしい。
であるならばこそ、僕は、この考え方をぶっ壊すのが自分の人生の目標だと思っている。

「才能がないと、社会的な成功は得られない」
「遺伝とか、今までの人生とか、そういう先天的なものがなければ、行きたい場所には行けない」
「自分には才能がないから、諦める」

そういう人の考え方を壊して、多くの人が、自分の才能とか自分の考える限界とかに囚われずに、やりたいようにやってもらう。

少なくとも「東大合格」という分野の話においてだけは、才能がなくても合格できると生き証人として証明した西岡壱誠として、先天的な才能を後天的な努力で凌駕できることを、より多くの人に知ってもらうことが、自分が生きる意味だと考えている。
だから、「今を生きる」という意味の「カルペ・ディエム」なんて会社を作り、

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「才能なんて不要です!」とデカデカと書かれた「東大思考」なんて本を書いた。

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東洋経済新報社 「考える技術」と「地頭力」がいっきに身に付く 東大思考

今日はこの、東大思考を書いた記念に、僕の決意表明を込めて、才能がなければ東大に合格できないと思っている人に向けて、僕ができる最大限の反論をしようと思う

才能がある【程度】で、東大合格なんてまず無理。

まず、はっきりさせておこう。
僕は「世の中には、生まれついての天才なんてほぼいない」と思っている。
「生まれつきの才能」だけで頭がいいような人なんて、本当に本当に歴史上に名前を残すような人だけだと思っている。

「いや!そんな事はないよ!」
「やっぱり、生まれつき頭いい人はいるよ!」
「バカは東大になんていけないんだよ!」

あなたはそんな風に考えるかもしれない。
そして確かに、東大生の中には、先天的なものを持っている人というのは多いと思う。
記憶力がいいとか、合理的に考える能力があるとか、読解力があるとか、まあいろんなスキルがある東大生が、確かにたくさん存在している。
ルービックキューブをすごい速さで解けるとか、クイズでいろんな問題を解けるほど記憶力がいいとか、そういう人がメディアではフィーチャーされているな、と思う。

でも、正直な話。
あなたは、【その程度の才能】で、本当に人間が東大に合格できると思うだろうか?

はっきり言って、その程度で東大生になんてなれないのである。
たかが記憶力がいい程度のことで東大になんて合格できない。
ちょっと合理的な思考ができるからといっていい成績なんか取れない。

何かを達成しようとしたら、必要になる才能やスキルは1000個以上ある。
1つのスキルが超秀でている【程度の】ことで、結果が出るわけがないのだ。

よく僕は直接対面で、
「東大生になれるやつっていうのは、生まれつきの才能があったんだよ!」
「だから西岡くんも、東大生になれたってことは頭いいんだよ!」

と言われる。
それに対して僕は、「どんな才能ですか?」と聞くと、「記憶力だ」とか「集中力だ」とか、いろんな回答をもらう。
これらの回答は、人によって様々だ。
だがどれもなんとなく、東大に合格するためには確かに必要そうなスキルだなあと納得できるものだ。

でも、そう。そうなのである
東大に合格するためには、多くの人が考える通り、【いろんな才能】が必要なのだ。いろんなものを暗記しなきゃならないのはもちろんのこと、忍耐力も集中力も必要だし、自分のスケジュールを管理しなきゃならないし、試験でアガらないための度胸も必要だ。

それらを、全部が全部、「持って生まれついての才能」ということで説明できるだろうか?

東大に合格できる人は、先天的な天才だけだ」と言う人は、あの3000人が、全員、記憶力も、集中力も、忍耐力も、度胸も、論理的思考力も、何もかもをすべて、生まれつき持って生まれた人間たちの集団だとでも言うつもりなのだろうか?

はっきりいって、それはおかしい。
そりゃ、探せば1人くらい、そう言う神に愛された人がいるかもしれないが、それはもう宇宙人みたいなもんだ。
僕は今まで東大生1000人くらいと話したが、正直そんな人にはあったことがない。
というか、東大生の中には「記憶力はいいけど集中が続かなくて苦労した」とか「忍耐力はある方なんだけど如何せん度胸がなくて大変だった」とか、そういう何か才能が欠けていたけれど、それでもどうにかこうにか頑張ってなんとかなったと言う人が多い。才能が無い分野を、どうにかして補った人が多いのだ。

はっきり言おう。
人間はみんな、才能がない。

それは東大に合格できる人だろうが、凡人だろうが、変わりはないのだ。
それなのに、たった1つの指標が生まれつき秀でているとか秀でていないとか、そういう話だけで、「生まれついての天才には敵わない」と語る人間があまりにも多すぎると僕は思う。


そもそも人間には、誰も彼もそんなに多くの才能はない。

そしてこの話の延長線上で言うならば、僕は「東大に合格する」という話以外でも、これは当てはまると思う。
例えば「自分にはライターの才能がない」と嘆く人がいる場合、この「ライターの才能」ってなんなのだろうか?
キャッチーな出だしを考える能力だろうか?
わかりやすい言葉遣いをする能力だろうか?
読者に対する想像力だろうか?
それとも文章の構成能力だろうか?
ライティングがメインの仕事と言えど、編集者に気に入られる処世術がないと食っていけないし、一定の営業力がないと仕事が来ないだろう。
そして、その全てを、一定の水準以上で生まれつき有している人がいるというのだろうか?その観点で言うならば、誰もがライティングの才能を持っていて、誰もがライティングの才能を持っていない。
100万部突破する本を書く人だろうが1文字も書けないと嘆く人だろうがなんだろうが、全員揃って、才能はないのだ。

しかし、だからこそ。
東大に合格するためには、また成功を掴むためには、他の才能もひっくるめて全て、自分の持っていないものは全部、「鍛える」必要がある。
記憶力が足らないなら記憶力を、集中力が足りないなら集中力を、忍耐力が足りないなら忍耐力を。
持って生まれた才能でない部分は、必ず、一定の水準まで上げなければならない。
つまりは、「後天的な努力」だ。
才能が無い部分を補いながら、騙し騙しで、みんな頑張って、結果を出すために努力しているのだ。
僕らの目から見て成功しているように見える人も、東大に合格している人も、全員、自分にないものを取り込む努力をしっかりやった結果、成功しているだけだ。
それなのに、その努力を見なかったことにして「生まれつき」という5文字の言葉だけで済ませてしまうのは、逆に、全ての成功者、全ての東大生に失礼だと思わないだろうか?
僕は思う。
東大生の彼ら彼女らは、全員、努力の結果、東大に合格している。
もちろん才能がある分野があるのは事実だが、『才能程度』のことで東大に合格できるというのはあまりにも想像力が足りないと思う。
確かに才能はある。
だが、才能以上に、努力が大事なのだ。

努力が結果に結び付くのは、才能がある人だけではない

というわけで、「才能」ではなく「努力」が必要である、ということはある程度理解してもらえたと思う。だがここで、非常に強硬に、こんな考え方をする人がいる。

『バカは、成長しない』
『努力しても、結果がでない人間だって、いるんだ』

と。
例えば僕は今までずっと、「こういう努力の仕方をすれば、東大に合格できるんだよ」というスキルをたくさん記事として、そして書籍として出させてもらっている。しかしそんな記事のコメントとして、こんなことを言われる。

『これが実践できるのは、頭のいい人だけだ』
『こういう努力をして、結果に繋がるのは才能がある人だけだろう』

と。
つまり、「努力自体も才能である」「努力が結果に結びつくかどうかも、その人の先天的な才能に依る部分が多い」と考えている人が多いということだろう。

これには、一定の納得感があるように思う。
確かに、「努力すれば必ず結果につながる」というのは嘘だ。野球が上手くなりたいのにグラウンドでずっと走り込みの練習をしても意味がないのと同じように、努力が結果に結びくとは限らないだろう。それは否定できない事実だと思う。
だが、一方で。
「適切な努力」というものがこの世の中には存在し、それを追い求めることも含めて、「努力」なのではないだろうか?
向上できるかできないか、努力を結果に結び付けられるかどうかは、「才能」とは関係ないはずだ。

東大で一番、「頭がいい」女子の話

「適切な努力」。
これに関しては人に説明する時に、僕はいつも一人の東大女子を思い出す。

あなたは「うわぁ、頭の良いなこの人!?」って人に会った事はあるだろうか。
僕は何度もある。
偏差値35だった自分が東大に行ったのだから当然といえば当然だが、まあ「みんな頭いいな!?」ってことの連続だった。学問的な意味で優れている人・1つの領域に対して恐ろしいほどに深い知識を有する人・思考のスピードが恐ろしく早い人……。
「やっぱ東大生ってすげえなーーーーー」と今日まで5億回くらい感じている。

だがそんな中で、一番「この子はやばい」と思った人がいる。
彼女は、勉強はもちろんのこと、周りとの人間関係や気配り、状況に応じた咄嗟の判断能力、プレゼンスキルに説明力、さらには東大生が苦手だと言われがちな処世術・人から気に入られるスキル、全てを兼ね備えている超絶最強なスーパーウーマンだった。
東大首席の友達すら「彼女は本当にすごいね、俺全然敵わないよ」と言っていた。
僕も、「こんなにすごい人が東大にはいるのか……!」と脱帽する思いだったのを覚えている。

で、そんな彼女に僕は聞いてみたのだ。
「あのさ、どんな風に今まで勉強してきたの?やっぱり独自の勉強法とかがあるの?」と。
すると彼女は不思議そうな顔をして、
「はあ、特別な事は何も。すごい人の真似をしていたらこうなっただけですよ」
と言った。
「えっ?」
と思わず聞き返すと、
「自分で勉強法考えるとか、そういう才能私にはないんで。それよりも、自分より優れている人のやり方を全部パクれば自分で考えるよりも効率的なんですよ
と言った。
聞けば彼女は、何かを勉強しようと思ったらその科目が得意な人のノートの取り方・勉強習慣を完コピし、何かのスキルを得ようと思ったらそのスキルを極めた人の所作・行動を真似しているのだそうだ。
自己流なんて捨てた方がよっぽど効果的ですよ、西岡さん
とのことだった。

なぜ西岡は、東大に合格できたのか?

さて、僕は元偏差値35で2浪して東大に合格した人間だ。
「どうすれば頭が良くなるんだろうか?」
「どうすれば東大合格という成功を収められるんだろうか?」
と死ぬほど思い悩み、死ぬほど苦労し、死ぬほど結果が出なくて死ぬほど落ち込んで、それでもなんとかここまでやってきた人間だ。
そんな僕が見つけた、「バカが成功を掴むための方法」「適切な努力の仕方」と言うのが、まさしく彼女の言葉と同じだった。
とにかく、頭がいいひとの真似をすればいいのだ。

よく僕はインタビューで「なんで東大に合格できたんですか?」と聞かれるのだが、毎回答えるのは2浪が決まった時のエピソードだ。
僕は、2浪が決定して、「これはもう、自分の今までのやり方とかを全部捨てなきゃならないんじゃないか」と考えた。
そこでやったのは、塾で頭がよかった友達や東大に合格した友達に、
「申し訳ないし恥を忍んで言うんだけど、後生だからノート見せてくれない?」
「勉強法を教えてくれない?」

と聞きまくると言うことだった。
聞いて聞いて聞いて、分析して分析して分析して。
そうやって話をしている中で、自分がやっていることとは全然違うやり方を実践していることに気付いた。
だから、とにかくそれをパクった。
そしたら成績が上がり、東大に合格できた。僕がやったことといえば、たったそれだけのことなのだ。東大に合格できたのは、東大で一番頭のいい東大女子の話と同じで、自己流を捨ててすごい人のやり方を真似したからなのだった。

なぜか「問題の答えを見ない」人間の不思議

もっと詳しく説明しよう。
例えばあなたがなんらかの問題集をやっていて、わからない問題が出てきたとしよう。そういう時、どうするだろうか?
……おそらくは、「まあ、よくわかんねーから、答えでも見るか」と解答を見るだろうと思う。
また解答がない場合は「なんかネットとかで答えとかないかな」と調べると思う。
当然の行為だ
わかんない問題で時間をかけているよりも、手っ取り早く答えを見てしまった方がいいだろう。

だがこれ、ちょっと条件を変えると、「当然」でなくなるのだ。
例えばあなたが現実社会の中で問題にぶち当たり、なんとかその問題を解決しないといけない、となったとする。どうするだろうか?
……おそらくは、「うーん、どうすればいいだろう?」と自分の頭で考えるのではないだろうか。考えて、悩んで、答えを自分で出そうと努力するのではないだろうか。それかもう、放っておく、という人も一定数いるだろう。
考えたって仕方ないし、いい答えとか出ないじゃん?
と、そう考える人もいるだろう。
褒められたものではないかもしれないが、まあ、でも、それもそうだろう。
自分で考えたって、答えが出ない場合も多い。
それならば、そんな無駄な事はしない方が賢明、と考える人もいるはずだ。

はっきり言おう。僕も同意見だ
自分一人で考えたって、答えなんか出ない。
そりゃ、余程才能があって、生まれつきの頭の良さがある人はいいかもしれないが、しかし正直世の中そんな人ばっかりではない。バカはいくら自分で考えたって、答えなんて出ないのである。

……そう。自分一人で考えたら、答えなんか出ない。
というか、そんなことをする必要はない。問題集で答えを見るように、ネットとかで他に解いている人がいないかを探すように、
「その問いを自分と同じように考えて答えを出した、自分より優れた人」を探せばいいのである。
どうせ、人間の悩みとか問題とかは、そこまで多く存在しているわけではない。
どうせ、自分が考えるよりも前に、もうとっくの昔に考えられて、答えがあるものがほとんどなのだ。
それを調べて、答えを覗き見てしまった方が、余程効率的というものなのである。
……ここらへん、人間って不思議だよな、と思う。
なぜか人間は、『問題』として出されたら、「うーん、わかんないな、答えを教えて!」と自分以外の人間から答えを聞くことを求めることに抵抗感がないにもかかわらず、自分の悩みやら目標やらを達成する時には、「自分で解決しなきゃ!」と答えを聞くのが悪であるかのように考えてしまうのである。
そうではない。
適切な努力をするというのは、非常にシンプルに、「すごい人の真似をする」ということなのだ。
猿真似でもいいから、見様見真似で実践する。これなら正直、どんな人でもやる気と根気さえあれば、できなくはないはずだ。

真似をするだけなら、猿でもできる

「でも、そんな真似をしていたって意味なくない?」
と思うかもしれないが、そんなことは全くない。むしろ人間は、真似から入る生き物だ。
「まなぶ」という言葉は、「まねぶ(=真似をする)」という言葉から派生したという説がある。
人の真似をすることで、人間は成長するというのは人間の本質だ。
日本だって明治維新の後、外国の真似をして「猿真似」とバカにされたが、結局ロシアに勝つほどの戦力を得た。

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不良のフリをしていれば本当に不良になってしまう。
優等生を演じてそのために努力し続けていれば本当に優等生になれる。
真似をして、演技をしていれば、最終的にはそれが本質になっていく。
どんなに偽物だったとしても、本物の真似をしていれば本物になっていく。
だからこそ、「本物の真似をする」ことで自分を努力させていけばいいのだ。
集中する才能が無いと思い悩む人は、「集中力がない人でもなんとかどうにかこうにか頑張る方法」がきっと書籍の中・ネットの海のどこかに落ちているはずだし、記憶力の才能が無いと悲しんでいる人も「記憶力を上げるためのテクニック」を真似してみればいいのだ。
そうやって真似をしたあとで、自己流に改造していけばいい。自分で答えを考えようとせず、とにかくまずは真似から入っていけばいいのだ。
だから僕は、自分の記事に『これが実践できるのは、頭のいい人だけだ』というコメントが付くたびに、「それは順序が逆だ」と思う。真似をするだけなら、猿だってできる。だって僕だってできたんだから。そしてそうやって拙いながらも必死で真似をして、実践していくことで、頭が良くなるのだ。そして実践して頭が良くなったら、また実践に活かせる部分が出てきて、また頭が良くなる。

勉強というのはその繰り返しだ。
決して、才能があるから実践できるというわけではないのだ。

今は確かに、環境が整備し切られていない

逆に、僕が「この考え方は確かにそうだ理解できる」と思うのは、「環境」という話だ。
例えば「心に余裕がない状態で、努力しようと思っても続かない」とか、「周りに切磋琢磨し合えるライバルがいない状態で努力を継続するのは難しい」というのは、理解できる考え方だなと思う。だが、実は環境自体も、努力で作ることだってできるのではないかと思う。
例えば東大5浪理3の阿修羅さんは、理3を目指すライバルたちとTwitterを通じて出会っている。
もちろんなんの苦労もなくそういう環境を作れる人たちと比べてハンディキャップがあることは確かだと思うが、それも自助努力でなんとかなるレベルなのではないかと思う。
また、こんな風に考える人もいるかもしれない。

「でも、その『適切な努力の仕方』って、なかなか教えられる人が少ないから、現状では自分の努力だけではどうにもならないよね」

と。
まあ正直東大合格という話だけで言うのであれば、「東大合格」のための知見を持っているのは一部の人に限られており、そういう環境に行けないからこそ失敗している人もいると言う現状はあると思う。
だが、先ほどの阿修羅さんの例もそうだが、そういった情報をネットやSNSを通じて得ることができるようになってきている。また、先ほどの例でいうところの「答え」に近い情報も、最近はどんどん発信されていっていると思う。世帯年収300万円代で両親ともに夜逃げ経験者の家庭から、そうしたネットの力を使いつつ東大に合格した学生だっている。

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【布施川天馬著 東大式節約勉強法
僕は、自己の努力が、結果に結びつきやすい環境になっているのではないかと思うのだ。

しかしそうは言っても、こうを考える人も少なからずいるのだろう。

「それでもまだ、その環境が足りないんじゃないか?」
「本当に自助努力だけでこのギャップを埋めることはできないんじゃないか?」

この意見に関しては、理解できる部分も多い。
というかむしろ、そういうことがあるからこそ、僕はこうして、記事を書いて本を書いている。
僕の仕事は、そういう「努力を結果に結びつける環境作り」だと思っている。1つでも多くの答えを、1つでも適切な情報を、わかりやすく伝わりやすく丁寧に、話す。
これこそが僕がこれからやっていかなければならないことだと考えているのだ。
だから僕は記事を書くし、本を書くし、会社を作ったのだ。

まとめ

以上が、僕が「例えバカでも東大に合格できると考える理由」「努力で才能を凌駕できると考える理由」だ。

納得してもらえただろうか?

……別に、しなくていい。
これは正直、僕にとっては決意表明のようなものなのだから。

いくら口で言っても、意味がない。
このnote自体に価値はない。

僕がこれから行動して、一人でも多くの人が先天的な才能ではなく努力で結果を出すようにすればいいのだから。


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最後に。この「東大思考」は、こんな想いを込めて書いた本だ。もし、少しでも、「自分も、才能じゃなくて努力で何かを凌駕できるかもしれない」と思えた人がいたのなら、この本をぜひ購入してみて欲しい。そして、自分の人生を、より素晴らしいものにしてもらえるならば、こんなに嬉しいことはない。

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