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3人目の職人になれって話。〜綺麗事で、生きていく。〜

みなさんは、「どうして東大を目指そうと思ったのか?」と東大生に質問したときに、どんな答えが返ってくることが多いと思いますか?

……まあ多くの場合、このように考える方が多いのではないでしょうか。
「うーん、お金を儲けたかったからじゃない?」と。
確かに東大に入れば、やはり生涯年収が高くなります。だからお金を得たくて東大に入ろうとしたのでは?と思う方もいらっしゃるのではないかと思います。

またはそれ以外の理由として考えられるのは、「1番の大学だからトップを目指してみたくなったんじゃないか?」と考える人も多いのではないかと思います。
1番頭がいいところに挑戦してみたかった、だから東大に来た、と。

しかし、実は両方とも違います
僕はこう見えても(いや、どう見えてるんだ、って話ですが)今まで東大生1000人くらいに、おんなじ質問をして、答えを聞いたのですが、その理由というのは、意外なことに。

「世のため人のため」。
「誰かのために東大合格をしたいと思った」

と言う人が、多いんです。
例えば地方出身で周りに東大志望が自分以外いなかったのに東大に来たような人は、

「自分は人口3,000人の村の出身だ。そして、この村を活性化させるために僕はここ(東大)に来たんだ。」
「将来は地元に戻って、こうゆうことがやってみたい」

と言うようなことを語る場合が多いのです。
または、「官僚になりたい」と言う人も多いです。国を発展させたい、日本を良くしたい、だから東大に入って、官僚になるんだ、と。
女性の方だと、「将来は国際系の仕事をしたい」という人が多いです。自分のためというよりも、アフリカの貧困問題とか国際社会とか、どこかの国の誰かのために、何かをやっていきたいと考えている人が多いなと僕は感じるのです。

みなさん、これをどう思いますか?
綺麗事だなぁ、と思う方もいらっしゃるかと思います。
僕もそう思います。

「自分の人生、自分のために生きればいいものの、人のために生きるなんて馬鹿らしいぜ」
「自分がやりたいようにやるべきなんじゃないか」

とおっしゃる方もいらっしゃると思います。
しかし実は、そういうことではないんです。
何か大きな事を成したいなと思った時に、偽善でも、綺麗事でも、「人のため」というのは実はすごく効力を発揮するときがあるんです。

というわけで今日は、「人のため」の話。
誰かのために生きる人であれ」ということについて話したいと思います。

○「3人目の職人」になるべきだって話。

さて、皆さんはこんな話を知っておりますでしょうか?

あるところに旅人がいました。
旅人は、旅をしている途中で、3人のレンガ職人に出会いました。
レンガ職人はみんな、同じようにレンガを積んでいます。
そして、そのレンガ職人に聞いてみました。
「何でレンガを積んでいるんですか?」と。

一人目はこう答えました。
「見て分からないのか、とりあえずレンガを積んで、お金儲けがしたいんだよ」
二人目はこう言いました。
「見て分からないのか?レンガを積んで礼拝堂を作る為に、俺はレンガを積んでいるだよ」

そして三人目はこう話しました。
「レンガを積むことによって礼拝堂を作り、それがこの街のコミュニケーションの場になるんだ。この町にとってプラスなんだ。だから僕はレンガを積んでいるんだよ」

同じレンガを積むという行為をしているである人にかかわらず、実は、そのモチベーションや考え方は、全然違っていたわけです。
皆さん、誰が一番、モチベーションが高い職人かわかりますか?
それはやはり、最後の人なんですよ。三人目が一番、レンガを積むという単純な仕事に対してでもプロ意識を発揮して、ちゃんと努力するということができるし、何かあっても絶対に諦めないのです。

僕は学校で講演をすることが多い人間ですが、この話を「勉強も同じだよ」と伝えます。

「レンガ職人がそうだったように、実は君たちは、勉強しているわけじゃないんだ。
君たちは普段、数学を勉強してるとか、国語を勉強してるとか、そういう勉強をしていると思っているだろう。
でも実は違うんだよ。君たちは将来の“何かのため”に努力しているんだ。
努力すること自体に意味があると思ってはいけない。レンガを積むことに意味を求めても意味がないんだ。
何に繋がるのかということをきちんと考えないと、結局、継続しないんだよ。」

という話をするんです。
そうすると多くの学生は、なるほどと納得して下さって、自分も何か見つけてみようかなという気になってくれる……ということがあります。
誰かのために生きるというのは、こういうことです。
自分のために生きるのではなく、三人目の職人になるということ。
誰かのために、何か行為をする」ということを掲げたとき、三人目の職人のようなモチベーションを持った時、人間の努力は真に意味を持つのです。

○自分一人の夢から、多くの人の夢に変化していく

僕の経験でお話をしましょう。
僕が東大を目指し始めたのは何故かと言うと、非常にシンプルな話で、“いじめられたくなかったから”です。
悲しいことに、僕は負の感情から東大受験を目指しました。
東大受験を考えたのは、僕がすごいいじめられっ子で、「この状態でいたら、またいじめられるだろうな」と思ったからです。
ここではないどこかに行きたい。
中途半端な自分は辞めなければならない。
一つのことを努力できるような人間にならないと、ずっといじめられるだろうなと思い、だから東大を目指し始めました。

つまり僕は、自分のためだけに、東大を目指し始めたのです。
それが、現役で落ちて、一浪で落ちてということになって、三年間受験というものを経験することになった時に、何度も「もう東大受験なんてやめようか」と思いました。
受るイメージがわかなかったし、がんばっても意味が無いだろうと思っていた時期が長かったです。
それでも、なぜ辞めなかったのか。
それは、受験勉強の途中で、【自分以外のモチベーション】を持ち始めるようになったからです。

みなさんは「三月のライオン」という漫画をご存じでしょうか?その漫画の中でこんな話が出てきます。

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羽海野チカ『3月のライオン』8巻

70歳過ぎたおじいちゃんが、長い間、将棋の名人の座をずっと守っています。ずっと負けずに、なんとか、勝ち続けてそこまで来た。

でも、ある対戦相手と戦って、負けそうになるのです。

ついに負けそうになったときに、彼が思い出すのは一体何かというと、『今まで自分にタスキを渡ししてきた人たち』のこと。
俺はもうここで諦める。だからお前は名人になってくれ。自分はもう頑張れないんだ。だから申し訳ないけど、俺の分までがんばってくれ
というようにタスキを渡してきた人たちを思い出すのです。

タスキを渡されて、50年以上戦ってきた。
諦めて行った多くの人の、おびただしい量のタスキというのが自分の上に乗っかっている。
これがめちゃくちゃ重い。
でも、負けそうになったときにやっと、はじめて、このタスキを捨てられるかもしれないと思うんです。
このタスキをやっと、下ろせるのか、と。

しかし。
あ、でも違うな」、って思うんです。

今まで自分は、地獄みたいな状況で戦ってきた。
その業火の中で、焼かれながらも戦えているのはどうしてかと言えば、この「重さ」があるからだ。
この重いタスキを背負って、ここに立っているという状況にいるからこそ、火から逃げないでいられて、自分は頑張れるんだ
だから、ここのタスキを捨ててはダメなんじゃないか
手放してたまるか、と。
その先にある風景を、みんなで、見に行かなきゃならないんだ、と。

そう思って、自分を奮い立たせて戦い、
そして、勝つわけです。

僕はそれを見たときに、あ、これだなと思いました。
僕もそうだったんです。

僕は、東大を目指すとなった時に、東大に合格できなくて諦めて僕にタスキを渡す人間がたくさんいたんですよ。
俺の分まで頑張ってくれ」と言って、僕にタスキを渡してくる人間がいました。
そしてそのタスキを、僕は捨てたくなかった。
だってそのタスキはきっと、別の人にバトンとして渡せるはずなんです。

東大合格した時に、例えば僕の友達が、「あいつも頑張ってるから自分も、もうちょっとがんばってみよう」と思うかもしれないし、後輩が僕の背中を見て「じゃあ次の世代の僕らもがんばろう」と思ったりしてくれるかもしれない。
誰かに僕のがんばりが繋がるかもしれないと思えたから、ここで諦めたらその人たちに悪いなと思った。
タスキを渡してくれた人たちの顔を思い出して、これから僕らが渡すタスキを渡す可能性がある人たちを思って。
僕は、じゃあ努力を続けなきゃ、と思って、東大を目指し続けることができたのです。

自分のためじゃなくて、他人のためだったから、僕は頑張り続けられた。

○「自分のため」なんて、欲望が小さいぜって話。

みなさん、綺麗事でいいんですよ。

人間なんていうのは、いつか死にます。
いつか死んで、自分が得たかったものとか、考えたものというのを捨てる時が来ます。

そして、やはり、道半ばで亡くなる人の方が多いと思います。
よく、芸術家だの音楽家だのというのは、死んだ後にその天才性などが発掘されることありますよね。
ゴッホもモーツァルトもそうだった。
でも、それでもいいんです。
全力で駆け抜けて、駆け抜けてからやっとその後で評価されるというのは、割とあるわけです。

そう考えたときに、です。
お金とか、地位とか、名誉とか、そんな、チャチなものを得ても仕方ないんですよ。
自分だけのモチベーションだけでは、弱い。
そんなくだらないもののために、人間は戦い続けられない。

「個人のエゴが、綺麗なモノじゃないから」じゃありません。
単純に、人間として欲望の質として、そういうものは、小さいんだと思います。
それに対して大きい欲望とは一体何なのかというと、これは「人のため」とか「世の中のため」ということなんだと思います。
自分以外の人も喜んでくれるようなことをしようとすると、それは自分を喜ばせるより難しくて、だからこそ大きな欲望であり得るわけです。

だってみなさん、誰かを変えたいとか、誰かの人生に影響を与えたいだなんて、傲慢で愚かなほど大きいと思いませんか?自分の人生じゃなくて、他人の、しかも複数人の人生を変えたいだなんて、おこがましいにも程がある。
。誰かのために生きるとか、誰かを変えたいとか、世の中を変えたいという方が、実は愚かなほどに、大きい願いなんですよ。


僕は、「綺麗事を言おう!」と言っているんじゃありません。
やるんだらったら、願いとして「大きい願いを持て」と言いたいんです。

一人目の職人であっちゃいけないんです。
二人目の職人であってもいけないんです。
三人目の職人になってほしいんです。

じゃないと、物事というのは継続しないし、いつかどこかで心が折れて、逃げる日がくる。
そのときに、その場に留まって逃げないでいられるかというのは、“願い”や“想い”が「重い」かどうか。
その一点に尽きるかと思います。

○まとめ

誰かのために生きる。
自分を蔑ろにするのではなく、自分以外の誰かの顔を思い浮かべて、戦う。
この行為ができる人間とそうでない人間とでは、きっと、背負っているものも、戦いに対するモチベーションも、大きく違います。

誰かのために生きるという旗を、今こそ掲げようじゃありませんか。

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