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いじめられたくないから東大に合格した話。

西岡壱誠は、元偏差値35で2浪して東大に合格した人間だ。

今でこそ東大生として本を書いたりテレビに出たりしている人間ではあるが、もともとは、「マジで人生積んでるやつ」だった。


小学生の時には学年ビリだった。
中学生の時には自主退学勧告をされた。
高校生の時には英語の点数が3点だった。
いじめられっ子で二次元オタクでコミュ障で引きこもりでニートな、今の自分が考えても「将来どうするつもりなんだこいつ」って感じの人間だった。

で。
そんな人間が、なんで東大を目指して2浪したのかという話なのだが。
端的に言うとこれ、死にたくないからだった。
悲しいことに俺は、いじめられたくないから、東大を目指しただけなのである。

○どこに行ってもいじめられる

まず前提として。
西岡壱誠はいじめられっ子だ。
どこに行ってもいじめられるし、どんな相手からもいじられる。「いじられキャラ」の人間だ。
小学生のあだ名は「チェブ(チビでデブ)」で、中高生の時には「焼きそばパン買ってこいよ」系のいじめもあったし暴力系のいじめもあった。
思い出したくもないが、まあいろんなことがあった。
先生にチクったらいじめが激化したとか、俺があまりにいじめられすぎるものだから学校の先生が病んだとか、流血沙汰になって非常ベルが鳴って病院に運ばれたとか。
特定の人にいじめられていたわけでも特定の場所でいじられキャラだったわけでもなく、コミュニティを超えていじめられ続ける、そう言うキャラの人間だった。

それに対して俺は今、何も思っていない。
昔は人並みに怒りを覚えていたような気がするが、しかし高校生になってから、強い感情を持たなくなった。
その代わりに、諦めるようになった。
まあ、俺ってこう言う人間だよなあ」と。
「いじめられっ子で、いじられキャラなやつだって言うのは、変わんないんだろうなあ」と。
「そう言う星に生まれた人間だから、いじめられるのは当然だ。むしろいじめっ子の方に申し訳ないな」と。
これ自体は、今も全然変わっていない。今も俺はいじられキャラだ。
後輩には舐められ、同級生には馬鹿にされ、周りからいじられる対象だ。

○いじめは「お腹が空いたライオン」だ

「いじられキャラ」なのはいい。

問題は、それが「いじめ」になってしまうことだ。やめてと言ってもやめてくれない、本当に嫌なんだけど続けてくる、「いじり」ではなくそういう「いじめ」が、僕の周りでは多かった。

では、「いじり」が「いじめ」になるのはどうしてなのだろうか?いじめはどうして発生するのだろうか?

世の中には「いじめ」系の社会問題が溢れている。
虐待やネグレクトは親の子供に対する「いじめ」だ。
賃金未払い問題やブラック企業問題は会社の社員に対する「いじめ」だ。
パワハラもセクハラも何もかも、「いじめ」だと解釈できる。
世の中は、「いじめ」で溢れているのだ

俺はそんな世の中において、いじられキャラであり、かついじめられっ子でもあった。
いじられの度合いが、いじめにまで足を突っ込まれやすい人間だった。


だから本当は、いじられキャラをやめようと思った。
どこに行ったっていじられる人間だから、多分この先社会に出ても、いろんな局面で、いろんな人にいじめられるんだろうなあと思い、そもそも「いじられる」のをやめたいと思った。


改善したいと思って、喋り方が変ならと喋り方を直そうとしたり、太っているのが問題ならばと痩せようと昼飯を抜いたりした。
結果、どんなに頑張ってもどうあがいても、いじられキャラでいじめられっ子であることから抜け出すことはできなかった。高校生までずっといじめられっ子をやめようと努力し続けて、そして結果としてそれが不可能なのだと悟った。


15年間、俺は無駄な努力を続けていただけだったのだった。

だが15年間いじられ、いじめられ続けてきて、気付いたことがあった。
いじめられっ子だからこそ、わかったことがあった。


あ。いじめって、『満たされない』から起こるんだな」、と。

「いじられるのがいじめになるのは、単純に、いじめる側の気分なんだな」、と。

例えば、機嫌が良い人間は人のことをいじめない。
先生や親から褒められて気分がいい時にはどんないじめっ子も俺のことをいじめなかった。
逆に、機嫌が悪い時には人は人のことをいじめだす。
親から怒られたとか成績が下がったとかそう言うイラつく事があった後にはぶん殴られるわけである。

クラスの雰囲気が良くてみんながストレスが少ないのならいじめは起こらない。「死ね」とか書いてある手紙を下駄箱に入れることはない。
逆に、クラスの雰囲気が悪くてみんながイライラしているのならいじめは起こりやすい。下駄箱に画鋲とか入っていてもおかしくない。
これは、生活水準もそうだ。
家がお金持ちで、優しい親の元で育った子はいじめをしようと言う発想が生まれることは少ない。
逆に、家に金がなくて、親から毎日怒られているような子供はいじめをすることもある。

お金がなくて儲かっていないからブラック企業になるし、親に余裕がないから子供に虐待をしてしまう。

なんらかの欲望が満たされていない状態や、その人の中で何かがうまく行っていない時に、いじめというのは発生する。

「腹減っているライオンは、獲物を探すだろう。」
「だが、満腹のライオンは獲物を探しはしない。」
「これは、それだけの話なんじゃないか。」

これが、15年間いじめられ続けてきて知ったことだった。
(このnoteの趣旨とは離れるが、これを知っておくといじめの対処が上手くなるのでおすすめだったりする。例えば僕は高校時代と浪人時代人にお菓子をプレゼントすることでいじめられなかった)

そしてそう知った時に、僕は思った。

「じゃあ、満腹のライオンが多い空間に行けばいいんじゃないか?」

と。
つまり、「社会資本もあって、自己肯定感もあって、満たされている人が多い空間に行けば、超絶いじめられっ子の俺でもいじめられないんじゃないか?」と考えたのである。

そう考えている時に、高校の音楽の先生が「東大に行け」と言った。

勉強は平等だ。努力が努力としてきちんと発揮されやすい。
「才能があるかないかとか、実はあんまり関係ない分野が勉強なんだ。」

そう聞いて、僕は思ったのだ。
「ああ、じゃあ、勉強を頑張って上の偏差値の大学に行けば、自分はいじめられなくて済むんじゃないか?」と。

そこから俺は、2浪した。本当に勉強して勉強して、努力して努力して、なんとかどうにかこうにか合格を勝ち取った。
「よくそんなにモチベーションが維持できたね」と言われるのだが、こっちからしたら何を悠長なことを言ってるんだって感じである。

だってこっちは、生きるか死ぬかがかかっているんだ。

いじめられっ子の俺が、なんとか生きていくための術を勝ち取る。
そのための東大受験なんだから、モチベーションがどうだとか、そう言う話ではない。
ビルの最上階で鉄骨渡している人間に「よく頑張ってるね!」と声をかけるようなものだ。

○東大に入ってみた結果

そうやって、2浪して東大に入ってみた結論として。

いじめは、なかった。
いじられてはいても、それがいじめにまで発展することはない。
いじめられないで、僕は4年間を過ごすことができている。

……というか、それ以前の問題で
東大生は、いじめを目撃したことすらない人が大半だ

とある東大生アンケートで、150人程度の学生に「あなたはいじめられたことがありますか?」という質問に対して「はい」と答えたのは一人、僕だけだった。また「いじめを目撃したことがありますか?」という質問に対して「はい」と答えたのも、僕を含めて二人しかいなかった
もちろんこの結果が全てを物語っているという気はない。
だが、やっぱり「いじめ」なんてしようとする発想もないくらい、満たされている人が多いのは確かなのだと思う。

巷では、

「東大生の家庭の多くは高収入な場合が多い!」
「教育の経済格差だ!」

と意見を言う人が多い。
俺はそれに対して「正しい面も間違っている面もあるよな」と思うのだが、まあ事実として、精神的にも生活水準的にも「満たされている」学生が多いことは確かなのだと思う。

そしてその功罪は置いておくとして、そういう空間に行くと、いじめられなくて済む。
それだけが、俺にとっては重要だ。

「じゃあ、偏差値の低い大学はいじめが多いとでもいうのか!」

とか、

「偏差値が低い人はダメ人間だとでもいうつもりか!」

という人も多いと思う。
全くそういうわけではない。そういう議論がしたいわけでは決してない。
これは純粋な、「民度」の問題だ。
単純な傾向として、偏差値が高い学校は、民度が高くなる場合が多い。
モラルがあったり、良識がある人間と付き合いたいのであれば、一定の努力をした人が多い空間に行った方がいい。そう言いたいのだ。
この状況が、倫理的に正しいか間違っているかは置いておいて、日本の学校教育を見た時に、そういう傾向があるのは、厳然たる事実なんじゃないかと思う。

少なくとも俺はそう思って、東大に行った。

その結果、今はいじめられていない。

これはそれだけの話だ。

○まとめ

この話を聞いてみなさんがどう思うかはわからないが、自分言えるのは、「いい友達とか、自由な環境が欲しいなら勉強した方がいいよ」ということだ。
事実として、勉強して偏差値が高い学校とか、競争率が高いほど人気な学校というのは、自由で開放的で、校則が厳しくなくて、自己肯定感もあってモラルもある学生が多い。これは小学校も中学校も高校も大学も、あるいは会社も含めて、そういう要素があるのではないかと思う。
もちろん例外もあるだろう。が、全体的な傾向としては間違っていないはずだ。だから、いじめられたくない人や、モラルがある人が多い空間に行きたいなら、努力すればいいと思う。僕の場合は、それが勉強だった。東大だった。それ以外の選択肢でも問題ないと思う。だが、いじめられていることを嘆いたり、置かれた状況に怒りを覚えるのならば、その前に、努力して違う空間に行こうとするのはありなんじゃないかと思う。そしてそういう意味で、いじめられっ子は強い。「ここに居たくない」と思える人間は、努力できるからである。だから僕は、いじめられっ子でよかったと、今ならそう思える。

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