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ミス日本2024への意見と日本人論

恐らく「ミス日本」に求めるものが個々人で大きく異なるが故に賛否両論が飛び交っている本件は、久しく置き去りにされている日本人論を、まさに多様性の歪みという形で顕しているように思うので、私にしては珍しく流行の話題に乗ってみようかと思う。

先ず最初に断っておくと、椎野さんが日本人であるという事実について否を言うつもりは毛頭ない。本件に関するSNS等の否定的な意見も、彼女自身が問題であるとする論はあまり見受けられなかった。日本が好きで大事に思ってくれているようだし、移住先の国とは気質が合わないというケースも少なくない中で、彼女が日々を楽しく過ごされているのであれば、大変に良きことである。

また、WBCでヌートバーが歓迎された件と比較する向きもあるが、集団の一部を構成するシチュエーションと本件とでは条件が全く異なるし、人種差別論を持ち出す人もあるが、先に述べたように本件は椎野さんが日本人であるか否かではなく、「ミス日本」として相応しいかという疑義であるから、この批判は論点がずれているように思う。

ここで「ミス日本」とはどのような存在なのか、明確にしよう。公式サイトには『「日本らしい美しさ」を磨きあげ、社会で活躍することを後押しする日本最高峰の美のコンテスト』と記されている。この"日本らしい"という、不明瞭な基準に対して抱く個人差こそが論争を生んでいる原因なのだとは思うが、少なくとも「日本女性の美を体現する存在」であることが期待されていると言えるだろう。

それでは、何の情報もない状態で椎野さんを一目見て、日本人女性だ、と認識する人はいるのだろうか?恐らく皆無ではなかろうか。說明なくして日本美を感じさせるからこそ「ミス日本」たりうるのであって、補強材料がなければ衆目に「日本人らしい美」を感じさせない存在が、国名を背負う任に相応しいのか否かという疑問は、実に素直で当たり前の感覚であるように思える。

各国のミスグランプリは、国を代表して世界中で親善活動を行うのであるから、一見して当該国のムードを感じさせることには意味があるし、何より自国民との同質性が極端に低い人物を、自分たちの代表者とすることに日本人が違和感を覚えるのは当然のことではなかろうか。

例えば、日本人としての遺伝情報だけを持ち、当然ながら国籍も日本、研ぎ澄まされた知性で日本文化に深く精通してそれを愛で、誰にも慈愛を示し、所作にも非の打ち所がないたおやめぶりの、とんでもない不美人がいたとしよう。彼女もまた、椎野さんと形は違えど大多数の日本人女性にとっては同質性を感じられないその造形ゆえに「日本らしい美しさ」を体現しておらず、「ミス日本」に相応しくない存在だ。

美醜に天と地ほどの差があろうと、美しい日本女性をその身一つで体現できる容姿を具有していないという点において、椎野さんと不美人は共に「ミス日本」たりうる要素で構成された存在だとは言えないのである。これは人種差別でも不寛容でもなく、多くの人にとって構成要件を満たしていないが故に反発を招いているという、ただの事実に過ぎない。

また、「ミス日本」は外見がその重要な要素であることは疑いようがないが、もし仮に、日本人だと言われても違和感のない容姿を持つ反日思想の東亜諸国出身者が選出されたとしても、日本を憎悪する内面からは「日本らしい美しさ」を感じ取ることができないので、より強い批判に晒されるだろうと思う。逆に、先に述べた不美人のような内面を持った台湾出身の美女が選出されたなら、帰化が成人後であっても否定的な意見はごく少数に留まるのではなかろうか。

更に、少し批判めいた物言いになるとは思うが続けて内面的な側面から申し上げると、「日本らしい」女性であれば、恐らく自分が「ミス日本」になりたいという気持ちよりも、自分は日本らしい美を体現する存在として認められうるだろうか、という他者評価に重点を置く、つまり先の不美人が実在すれば、そもそも応募を控えるのではないかとも思う。

ちなみに私は、小泉八雲のことを鳩山由紀夫よりも日本人らしい日本人だと感じている。あれほどに日本を愛した彼は、帰化してなお著書で自身のことを「私たち西洋人」と表現したのだ。なんとも奥ゆかしい、やまとごごろではないか。ただ我が国の古を尊び、優しく厳しく想いを寄せ続けた彼こそが生来の日本人よりも日本人らしいと思わせるこの感覚は、「日本人とは何か」ということの本質ではなかろうかと思う。

つまり、これは椎野さんを示す例ではなく一般論として、帰化した以上は日本人なのだから、日本人としての自分を認めろと主張するほど日本人からは遠ざかるということで、心から本邦へ溶け込みたいと望む他国の方は気をつけられるがよろしかろう。でも私の記事は読んでないよね、うん。

これは完全に憶測だが、「第56回ミス日本コンテスト2024 」の審査員には、ポリコレへの配慮やウクライナを応援したいという気持ちがあったのではなかろうか。グランプリではなく別の賞であれば、こうまで批判されなかったようにも思えるし、どちらかと言えばグローバライゼーションよりもローカライゼーションがフォーカスされている昨今において、周回遅れの判断ではないかという印象さえ抱いた私である。

最後に、審査員の判断を良しとしない意見が、在日ウクライナ人や他国出身で帰化された方からも聞かれたのは興味深く、また嬉しい気持ちにもなった。日本人とは異なるアイデンティティを持ちながら「日本らしさ」を尊重してくれていること、心より御礼を申し上げます。

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