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博士のアルバム 3話

 次の日、先生は私が部屋に入るなり言った。「明後日、理学療法士さんが来てくれるんだ」
「そうでしたね。先生の体の具合、見てもらいましょうね」
なんだか急にやる気が出た様子。こちらも嬉しくなった。きっと茅野さんだ。先生は、茅野さんにもう一度会いたいんだ。

「後ろにある押し入れにアルバムがあるんだけど。お花の絵が入ったアルバム」
「探しましょうか?」
「うん、お願い」
ベッドの後ろに回り込み、押し入れの引き戸を引いた。
”冬用”
”毛布”
”枕カバー”
亡くなられた先生の奥さんが書いたと思われる奇麗な字で、寝具入れのビニール袋にシールが貼られていた。下の段に目をやると、ダンボールが3箱入っている。この中か、そう思い手前の箱を押し入れから引っ張り出し蓋をあけた。
”無機化学”
化学とは縁のない私には聞き慣れない言葉だった。著者名を見ると先生の名前が書かれていた。
「先生、本を出されていたのですね」
パラパラとページをめくってみる。はしがきに先生の挨拶文と署名がされている。その後のページは、何かの法則にしたがっているのだろう式に、数字と記号が書かれている。理解不能だ。



「それは、学生のために飯島先生と一緒に書いた本なんだ。今でも、年に何百冊売れてるんだよ。大学で先生方が使って下さってるみたいでね。わずかだけど毎年印税が通帳に入ってくるよ」
茅野さんは箸を置き、僕の話に耳を傾けた。
「母は、小学校で国語を教えていた。僕は7人兄弟の長男でね。母は僕にだけに厳しかった。少しのことで叱られた。叱られると言うより折檻だな、あれは」
「折檻、ですか?」
「うん。お風呂場に連れて行かれ頭から水を何度もかけられたよ」
「そんなことを?」
「とにかく、僕に対して厳しかったんだ。母は父が家にいない分、自分が長男をしっかり教育しなければと思ってたんだろう。僕がテストで100点とっても母は一度も僕を褒めてはくれなかったよ」
「子供ってお母さんに褒められたいものですよね。もしかして、先生はお母さんに褒められたくて一生懸命勉強されたとか?」
「そうだね。最初はそうだったのかも。でも、大きくなって早く母から離れたいってずっと思ってたんだ。その甲斐あって中学から家を出ることができた。寮がある中高一貫の進学校でね、絶対そこに入ってやるって猛勉強したなぁ」
「お母さんから離れたくて猛勉強したなんて、先生って面白いですね。それで、大学受験は北大に?」
「そうなんだよ、一番北だぜ。北まで逃げたんだ」
「お母さんからですね」
そう言って茅野さんはフフッと笑った。
この瞬間、僕の辛かった子供の頃の話は笑いに変わった。
「これ、面白いだろ。ネタだよなぁ」
「でも、当時は辛かったでしょ。無力ですし、子供は親には逆らえない。お母さん、長男を立派に育てなきゃってプレッシャーもあったんじゃないでしょうか。お父さんが留守にしがちならなおさら。今では考えられないですが、時代ですかね」
「そうかも知れない。でも、いまだに母には近づけないよ。この年になってもね」
「でも、先生は負けなかった。結果、お母さんは長男を立派に育てたことになりますよね。今の先生の姿を見てそう思ってらっしゃると思います。それに、やり過ぎたと後悔されてるかもしれません」
「母は今介護施設にいるんだ。寝たきりでね」
「東京に帰ったら会いに行かれるんですか?」
「行くわけないよ。近づけないもん」
茅野さんは、ずっと僕の話を聞いてくれた。一滴もお酒が飲めない茅野さん。お店が閉店時間になるまで飽きずに聞いてくれた。

「これまで僕の周りの女性は酒豪が多く飲みながら化学の話を朝までしてたんだ。だから、お酒が飲めない女性は初めてだったよ」
「お酒が飲めないのに閉店までいるって、先生の話が相当面白かったんでしょうね。ところで、茅野さんは今どうしてらっしゃるんですか?」
「あ、そう。だからアルバムを探してもらおうと思って。あ、ごめんね。こんなこと花井さんに頼んで。契約外だよね」
「いえいえ、それぐらい。私も茅野さんがどんな人なのか見てみたくなりましたから」


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