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限界の向こう側のレビュー:博愛主義を感じるやさしい世界、コンセプトとマダミスの競合

『限界の向こう側』は名作『コーヒーカップが割れたとき』の作者すな氏の新作であり、前作に引き続いて「登場人物と真正面から向き合う」という作家性が強く感じられるフィランソロピーな作品です。
また演出によって没入感を高めるという店舗マダミスのトレンドが採り入れられていて、丁寧に作られた愛があふれる世界観をプレイヤーが作者とともに体験することができます。
作者は「大人の青春の世界」と表現していますが、まさに「大人の青春」を体験することができます。
一方でシステムや進行面では犯人探しを行うゲームとしてのマダミスと競合する部分があり、マダミスとしては前作よりも評価を落とさざるを得ません。

小説や漫画などで「登場人物は作者の子供である」というたとえがなされることがあります。それだけ愛着をもって造詣されているということですが、まさに本作もそれが当てはまります。
前作もそうでしたが、登場人物に対してマダミス随一の愛情が作者から注がれている作品と言っても過言ではありません。そしてそんな登場人物をプレイするプレイヤーも、丁寧に作られた世界観に浸ることができます。
キャラクターの生い立ちや苦悩、人生の目標は等身大でプレイヤーが十分に共感できるものですし、それがキャラクターシートでうまくまとめられて丁寧に描かれています。
そのおかげで自然と没入感が上がり、このキャラであればこう考え、行動するに違いないという一体感を自然に得ることができますし、キャラクターが葛藤するときはプレイヤーも一緒になって葛藤できます。
最近の店舗マダミスのトレンドを採り入れることで没入感はさらに高められていて、没入感という点では満点です。

キャラクターたちの心情も含めてリアルにこだわることが非常に高い没入感を生み出しているのですが、一方でそれがゲーム面での曖昧さを生み出し、マダミスとしての満足度を下げてしまっています。
実際の人間は自分の行動に客観的な点数はありません。白黒はっきりわかる目標がある人はまれですし、目標そのものが状況に応じて変わるということすらよくあります。
しかしゲームとしてプレイするためには現実とそぐわないようなメタなルールや抽象化が必要です。
意図的かもしれませんが本作はそれらが欠けています。マダミスをプレイするというのはより広義にはゲームをプレイするということですが、本作はゲームらしさが希薄です。
マダミスは「犯人探し」を最大の目標としていますが、それがリアリティと競合しています。

これは進行面でも同様です。
実際に事件現場に居合わせてやむを得ずに犯人を探すことになったとして、時間を区切って議論したり、推理の披露や投票で犯人を決めることは現実には起きえないでしょう。
とはいえプレイヤーにはマダミスをプレイしているという諒解があるわけで、そこはフィクションとして順守するか、そうでなければゲームシステムのサポートが必要です。
サポートもなく放り出されるとプレイヤーが不安を感じます。そしてそれは没入感を阻害する要素です。

また本作はシステム面であるマダミス作品の影響を強く受けているのですが、残念ながら良い面だけではなく悪い面も踏襲しています。
その欠点はすぐに気づけるものですし、それがユーザー体験を大きく損ねています。導入するのだとしたらぜひとも工夫して欲しかったところです。
良いと思ったシステムを採り入れること自体はかまいませんが、それが適合するのかどうか、改善すべき点がないのかを検討しなかったのだとしたら、残念ながら怠慢と言わざるを得ません。

プレイヤーが登場人物になりきって一緒に喜怒哀楽を味わい、そして選択をするというのはマダミスやストーリープレイングならではの醍醐味です。
本作では作者の愛情の下でそれが実現していますし、音楽を通じた社会的なメッセージ性も強く伝わってきます。
一方で没入感がマダミスとしての体験を損ねてしまっている面があります。
「大人の青春」を追求するのであれば、いっそ犯人探しをサブ要素にしてしまって、ストーリープレイングにした方がより作品のビジョンと合致したかもしれません。

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