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主権の根源と相互制約としての武道・武術:アナキズム的相互尊重・平等の担保としての武道・武術の可能性について

『万物の黎明』を読んでの、国家権力による閉塞的支配の根源的要素の一つである「主権」(そのほか二つは「官僚制」と「カリスマ的競合政治」)について、その「主権」の根源まで言及はされていなかったので、それを深堀りして補完したい。

『万物の黎明』によって説かれている「主権」とは、言い換えれば「対抗する抑止力の存在しない恣意的に振るわれる絶対的暴力」そのものであった。

この「主権」要素が強く見られるのが、エジプトの古代王朝の原基形態、そしてインディアン社会での一部の部族についてである。

平たく言えば「観念的、実体的な抑止力が存在せず、自分の気まぐれで恣意的に他者を殺せる暴力性」が「主権」の根源ということ。

これは人類がサル的生命体から群れごと進化したという生命の歴史から考えても妥当なものである。

というのも、この主権というのはボス猿がボス猿たりうるための絶対的な土台であるから。

つまり、群れの成員間における暴力的闘争において、絶対的優位を持つ個体がその暴力的闘争での優位性を「主権」に転化させたことで、ボスになっているということ。

これを要約すれば、主権の究極的根源は、個人の戦闘能力、少なくとも群れの内部においては絶対的優位性を持つものとしての個体の戦闘能力にその基盤を置いているということ。

一般の人にも分かりやすいイメージで伝えるとすれば、『北斗の拳』における、世紀末覇者ラオウ、あるいは聖帝サウザーのような存在を想起してもらえればよい。

これが見えにくいのは、個人の戦闘能力が世代を経るにしたがって、暴力による支配が掟的な認識による法的認識を用いた支配に転化していったことによる。

それによって、時代が下った後のボス=王は、個体としての戦闘能力は必ずしも絶対的ではなくなったものの主権を保持しているという「ねじれ現象」が生じてきたため、主権の根源はなんだったのかが論理的にも事実的にも辿りにくくなっているのが原因であると思われる。

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となれば、主権の根源が「個人の戦闘能力」にあるということは、その「個人の戦闘能力」を極限まで高めるものとしての武道・武術が主権というものに繋がってくると言えよう。

それゆえに、主権については「剣」というシンボルが用いられることが多く、日本における「霊剣思想」、そして古墳群から数多く出土する銅剣、鉄剣もここから来ていると言えよう。

しかしここで一つの矛盾が生じる。

というのも、個人の戦闘能力というのが主権の根源であるが、個人の戦闘能力は個々の個体が自らの意志でそれを高められるということ、すなわち、究極的には万人が自らの生存のために自らが「主権者」として戦闘能力を高めていけば、逆説的に主権というものは消滅してしまうということが言える。

なぜかと言えば、「絶対的暴力」とは一方が他方に対して暴力性=戦闘能力において優位に立っていることを前提とするから。

なので、劣位に立たされている側が修練によって優位に立っている側と対等以上になれば、必然的に優位に立っている側は「絶対的暴力」を振るえなくなる=主権が消滅するという結末に行き着く。

この結果を端的に表しているのが、剣豪同士の決闘、特に居合の勝負における「鞘の内」の決着、すなわち物理的に勝負をつける前に相手の技量を見て取り「おそらく相打ち」と双方が認識することによって、無用の闘争を避ける結果になる、ということである。

ここから分かるとおり、正当な武道修行・修業による個人の主権の確立(これは主体性の確立と言い換えられる)を図ることで、この「相打ちの論理」から個人間の相互尊重を導出することが可能になるということである。

これが、武家政権時代という極めてアナーキーな時代において、アナキズム的な相互尊重による秩序が全部ではないにせよ確立されていた理由であろうと考えられる。

刀を抜くということは「相手を殺す」という意志表示であるとともに、「反撃によって殺されても文句は言わない」という意志表示でもあるということ、すなわち『常静子剣談』に言うところの「平静持ちたる大小を抜きて向こうに立てて、敵もこれを持てくるよと、ひたとおもひて見るべし」ということによる、「上位者による統括が存在しない中で、相互関係によって作られる秩序」が保たれていたということである。

これによって、西洋の封建制と日本の武家政権の大きな質的相違も見えてくる。

西洋の封建制秩序は、封建領主の暴力=主権とともに、キリスト教による認識の支配、ローマ教皇というある種の絶対的上位者が存在する、非民主的=非アナキズム的秩序形成であった。

それに対して日本の武家政権時代は、時々による大兵力を有する個人が存在はするものの、基本的には武士身分の者同士は根本的には対等であるという意識が存在し、さらに西洋のローマ教皇的存在が存在しない=絶対的上位者が存在しない中で、「相打ちの論理」によるアナキズム的相互関係から秩序形成を行ってきたと言えよう。

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以上を考えれば、武道・武術の修業・修行にこそ、グレーバーやジェームズ・C・スコットのようなアナキズム論客の理想として描くところの相互尊重的な平等を保ったままでの秩序形成の成立する可能性、すなわち従来の国家学説やビッグストーリーのような非民主的な支配関係による秩序形成に対するオルタナティブの成り立つ可能性があると言えよう。

映画『七人の侍』において、七人の武士の間には主従関係的な支配関係が存在せず、アナーキーな平等的秩序の形成が描かれていたように。

アナキズム的秩序が最も根強く形成されていたのは、前近代までの日本においてであったと言えるかもしれない。

それは縄文文化とその後継である武士の創った武家文化によるものであり、日本の基層的文化と言えるのではなかろうか。

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