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【少年院卒持論】人はどうして自殺するのか

コロナで遅れた入社式や入学式の影響が、ここ最近出てきている。

学生の自殺は心苦しいが、自殺というのは避けられない面もあるんじゃないだろうか。

自ら命を断つという行為は褒められたものじゃないけれど、ものすごい覚悟と勇気がなければできない。

特に自分を痛めつけて死ぬ方法は、意識が途絶えるその瞬間まで痛みや苦しみを味わい続ける根性がなければできないだろう。

今日はそんな話をつらつらと。


死ねば終わりにできるのか


どうしても「普通」というものが理解できずにいた頃、普通じゃない自分を終わらせたいと考えていた。

死んで終わりにできるのなら、自殺もありだろうと真剣に悩んだときもある。

だが、次に私を迷わせたのは「死ねば終わりにできるのか」という疑問だった。

確かに死んでしまえば、この世とはおさらばできるだろう。

起きる、食べる、寝る、これらの行為をする必要がなくなるし、誰かやなにかに振り回される必要もなくなる。

しかし、思考が完全になくなって自分という感覚が「無くなる」かどうかは不透明だ。

死んだ人と話はできないし、この世にある「あの世」の話はすべて想像である。

宗教上のあの世も思想におけるあの世も、この世の人間が妄想しているだけで実際にそうであるかは分からない。

そんな風に考えていたら、絶対にそうだという確信を持てないまま死ぬのは違うと思った。

そこで私は「逃げる」という選択肢を選ぶことにした。

死が迎えにくるその日まで、普通というものから逃げ続けようと決めた。

それが終わりにできることとイコールなのか今でも分からないが、普通になろうともがいていた日々よりずっと楽に生きられている。

これは私の個人的な価値観だけれど、死んでも終わりにはできないと思う。

きっとその先があって、そこにもまた楽しみや苦しみがある。

天国や地獄なんて概念は人が作った都合のいい解釈で、信じれば報われるなんて宗教にありがちな言葉もあてにならない。

だからといって「死んだら終わりね」なんて考えも都合がよすぎると思うのだ。

これだけ広い宇宙に体と心を持った生命体は、今のところ地球にしかいないと考えられている。

だが、それはあくまでも人が考える概念における生命体の話であって、よその星では生命体の概念すら違うのかもしれない。

細胞や電子信号自体に意識があって意思疎通しているかもしれないし、目には見えない分子レベルの世界で文化を形成している可能性もある。

そう考えると意識を持っている以上、肉体という組織が死んだらすべて終わりなんていうのは短絡的だと思う。

「死んでも終わりにできないならどうしたらいいんだよ!」と、私も発狂していた時期があった。

自殺を逃げや恥だと考える人も多いけれど、命を断つというのはある意味で彼らにとって最良の選択肢である場合も多いのだ。


逃げ続けるのもまたしんどい


自殺するのも頷けるくらいの残業をこなしている人や、加害者こそ死刑に値すると思ういじめに耐えている子どもがいる。

彼らが自殺するとニュースになって様々な意見が飛び交うけれど、必ずといっていいほど「だったら逃げればいいのに」と言う人がいる。

本当にそう思うだろうか。

私は死んだら終わりにできるという確信が持てなかったから死ぬのを諦めた。

その代わりに逃げるという選択をしたけれど、逃げることはそう簡単なことではない。

これはどんな状況にも当てはまるが、今いる場所を飛び出してあてもなく走り出すことにはかなりの勇気がいる。

前向きなチャレンジや応援してくれる人がいるわけではない状況で、たったひとり知らない場所に向かって「ただ走る」ことがどれだけ怖いか分かるだろうか。

「だったらこの状況をなんとか耐え抜こう」と考えるのは、ある意味で人の生存本能からくる保身的な思考だ。

後にも先にも追い詰められている状況で、更に新しいことにチャレンジするのはとてもリスキーであり恐怖が伴う。

「お金と時間を持てば余裕ができる」と以前noteで話したことがあると思うが、彼らにはそのどちらもないのだ。

余裕のない状況に加えて自殺の二文字が浮かぶほどに追い詰められている日々を送っていたら、「逃げる」なんてチャレンジングなことをできる人は少ない。

私はそれでも死ねなかったから逃げ続けてきたけれど、決して楽ばかりではなかった。

フリーランスなんて言葉ができる前に自営業になったから、会社員じゃない社会人はニートだとか楽してると思われることも多かった。

働く場所も時間も自分で選べるのはメリットである反面、自己管理を徹底する必要がある。

それについて理解してくれる人はほとんどいなかったし、「家で仕事してるなら家事ぐらいできるだろう」という会社員の彼との喧嘩も絶えなかった。

これらはコロナでリモートワークが増えたおかげで会社員にも理解してもらえるようになったが、以前は在宅ワークに対する偏見もあったのだ。

気分でホテルに住んだりホームレスになったり、かと思えば年に何回も引越したり、今日は東京にいても明日はどこにいるか分からない私の生活はなかなか理解されない。

「普通の大人は」「普通の28歳は」「社会人だったら」

そんな風に定義付けされた物差しで私を測る人の方が圧倒的に多く、つい最近までそんな人たちを上手くかわしながら逃げ続けてきた。

しかし、面白いことがあった。

無職に見える私の仕事や自由に見える生活をして私が人よりお金を稼ぎいい暮らしをしてると知った途端、批判していた人たちは「そういう生き方もありだよね」と肯定し始めたのである。

そのときようやく「もう普通というものから逃げる必要はないんだ」と感じた。

所詮人は、クソみたいな生き物だ。

自分にできないことを応援できる人は少なく、批判して自分より不幸な目に遭わせようと思っている人の方が多い。

羨ましいという気持ちが憧れになり、努力しよう、チャレンジしようと考えられる人もほとんどいない。

「自分が、みんなが、大多数がそうしてるのに、なんでお前はそうしないんだ!」と思っている人が大多数じゃないだろうか。

だから他人の顔色を伺って空気を読んで足並みを揃えて、死ぬ間際になって「あれもしたかった、これもしたかった」と後悔するのである。

私が逃げ続ける日々の中で、自分を奮い立たせるためにいつも思い出していた言葉がある。

「出る杭になるな。出過ぎた杭になれ。」

そして、岡本太郎の「自分の運命に楯を突け」という本をよく読んでいた。

逃げるのは簡単じゃない。

足を引っ張ろうとする人、蹴落とそうとする人、引きずり込もうとする人や手を貸すフリをした悪魔も近寄ってくる。

だが、それでもただ前だけを見て走っていれば、ある日ふと「もう走らなくていいかも」と思う日が来る。

絶対に来る。

逃げ続けることは相対的に考えると自殺と同じだけのしんどさがあるだろう。

だからこそ、簡単に「だったら逃げればいいのに」なんて言ってほしくない。

どちらを選ぶかは本人の自由だし、私はそのどちらも間違いだとは思わない。

人間は意外としぶといから自分で自分を殺すのは想像できないほど勇気と根性がいるだろうし、逃げ続けることもまた容易ではないのだから。


自殺をなくすことはできない


この世から自殺する人をなくすことは絶対にできないだろう。

生まれた人間全員が、寿命で死ぬ日が来ることなどあり得ない。

その昔、「自害」という考え方があった。

自殺と同義で語られることが多いが、自分の中にある「誇り」のために命を断つという考え方だ。

侍が生きていた時代によく用いられた言葉だが、今もきっと自殺ではなく自害という考えに基づいて命を断った人はいると思う。

人間には誰しも変えられない、譲れない思いがある。

「こんなことをするくらいなら」

その気持ちはプライドになり、選択肢を迫る要因にもなるだろう。

「だったら潔く死んでやる」そうして死を選ぶ人もいる。

その考え方や概念は、人間という動物が存在する限り絶対になくならないと思うのだ。

自殺は悪いことだと考える人が大多数を占めているが、ならば彼らに生きることがどれだけ素晴らしいのか説明してみてほしい。

私は人様に偉そうなことを言えるほどこの世が素晴らしいとも思わないし、彼らの見てきた世界が恨みつらみに溢れていても頷ける世の中だと感じている。

ネットを見ていればよく分かるが、ほとんどの人は他人の不幸が大好きだ。

いじめることで優越感や快感を得る人もいるし、その人たちの標的になる人間がいるのもまた自然の摂理なのだろう。

そもそも人間という生き物がろくでもないのに「それでも生きなきゃだめだ!」なんて言うのは傲慢が過ぎると思う。

確かに親や友人、彼らを思いやっていた人は自殺に悲しむかもしれない。

だが、誰かが死んだら悲しいのは病気も寿命も自殺も同じじゃないだろうか。

だから死ぬななんて言うのはこの世に生きている人間のエゴでしかない。

自殺はしてもいいと思う。

けれど、5分でいいから逃げるという選択について真剣に考えてほしい。

どちらも同じくらい苦しいだろう。

どちらを選んでも、楽ではない。

だからこそ、死ぬ前に1度でいいから真剣に天秤にかけてほしいのだ。

見方を変えてやり方を変えて、走って走って走ったその先に「自分らしい答え」がある可能性を探してほしい。

それでも死ぬと決めたなら、それがあなたにとって最適な答えなのだろう。

どうか最期くらい、自分らしい死に方をしてほしいと心から祈っている。


誰かの痛みや苦しみに簡単に同情する人間になるな


肉体的な怪我は誰が見ても重傷度が分かる。

血が出て腕や足があり得ない方向に曲がって骨が剥き出しになっていたら、痛いことは誰にでも分かるだろう。

だが、精神的な怪我は本人にしか分からない。

専門家と呼ばれる心理学医や精神科医が絶対に分かっているという証拠もないし、あくまでも想像する以外に彼らの痛みを知る方法はない。

だからこそ、簡単に他人の痛みや苦しみに同情する人間になってはいけない。

自分がどうしようもなく辛く悲しいとき、簡単に「可哀想」と口に出す人間を信用してはいけない。

「私にもこんなことがあった」「俺もそんなときがあった」と、自分の物差しで他人の痛みを測る人間についていってはいけない。

同情するのは簡単だ。

特に弱っている人間に対して同情することは、それだけで相手の弱みにつけ込めるチャンスを生むことになる。

しかし、同情で解決することなどこの世にはない。

「同情するなら金をくれ」というのはよくできた言葉で、可哀想だの大変だねと言われるくらいなら1000万くれた方がよっぽど助けになるのだから。

自分がどれだけ辛く苦しい思いをしたか、それが自殺を考えるほど追い詰められる出来事だったら彼らはきっと簡単に他人に同情しない。

しないのではなく、できないのだ。

同情されることがどれだけ虚しく無意味なことか知っているからこそ、他人の痛みに簡単に肩入れできないのである。

本当に傷付くことを知っている人間は、他人の痛みを自分の物差しで測ったりはしないだろう。

自分には分からない痛みで苦しんでいる人間に対して、可哀想などという偉そうな言葉を口にすることもしないはずだ。

もしもどうしても誰かを助けたいなら、彼が苦しんでいることと同じだけ必死になって相手の助けに徹すればいい。

誰かを助けることは同情することじゃない。

必死に生きることだ。

彼らの痛みや苦しみを半分かそれ以上に背負って、それでも平気だという顔をして生きることだ。

瀕死の人間を背負って100キロかはたまた1000キロか歩き続ける根性のある人間だけが、簡単に同情し手を差し伸べるべきだと思う。

そんなことをもできないくせに口だけで可哀想、大変だねなんて言うのは、無責任も過ぎる人殺しレベルのクソ野郎である。

そんな奴になってはいけない。

そんな奴が近付いてきたら、逃げて逃げて逃げ続けろ。

あなたが知っている、味わっているその痛みはいつか必ず苦しんでいる人のためになると私が約束する。


死にたきゃ死ねばいいよ


よく冷たいねと言われる。

冷めてるとか、興味がないの?とかなにに関心があるの?とか。

私が熱中し感情を突き動かされるのは、自分のことだけだ。

当たり前だろう。

自分に関係ないことなどどうなろうと知ったことではないし、たった1回しかない人生を他人に振り回されるなどたまったものじゃない。

だから、死にたきゃ死ねばいい。

生きるのが嫌なら生きることを放棄したらいい。

あなたが死を選んだとしても間違いじゃないし責められる理由もないから、どうか安心して自分の選択を決行してくれて構わない。

それでも私は死が迎えにくるまで、こちらから出向くことはしない。

どんなに嫌なこともクソみたいなことも生き抜いて、死から逃げ続ける。

「どうだ!まだ生きてるぞ!もっとやってみろ!」と言いながら、どんなことも面白おかしく生き抜いてやると決めている。

私はそうして逃げ続けてきたから、きっとこれからも逃げ続けるだろう。

笑いながら走って笑いながら殴られて、笑いながらまた逃げて、気の狂った頭のおかしい人になってしまえばいいのだ。

出る杭になるな。

出過ぎた杭になれ。

逃げるなら、逃げ続けろ。



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