見出し画像

不安定な自分を受け入れる

今日は土門蘭さんのVoicyをのんびり座ったまま聴いていた。

友人からオススメしてもらった、土門さんの『死ぬまで生きる日記』という自身のカウンセリングの記録を綴ったエッセイを読んで、もっと考え方に触れたくなったのだ。

本の「はじめに」の内容から引き込まれた。

本当のことを書きたい、といつも思っている。  私が惹かれる「強い文章」というのは、本当のことが書かれた文章だからだ。「本当のことを書く」とは、正直であることとは少し異なる。事実や感情をそのままさらけ出すというよりは、事実や感情をできるだけ素直に差し出すという感じだろうか。それなので、ほんの少しの嘘が混じっている場合もあるが、書く者がそれについて自覚的であるか、あるいは心から信じ切っている場合には、その文章は「本当のこと」になるように思う。

『死ぬまで生きる日記』土門蘭著

ぼくも本当のことを書きたいからこそ、自分の内面を言葉にしていく土門さんの文章は惹きつける何かがあったと思う。

近々、本の内容については、ほんじゃーにーで語るとして、今回はVoicyで語られていた「自分の中の不安定さとの付き合い方」について考えていきたい。

不安定さはどうして生まれるのか?

皆さんは、感情の浮き沈みがあるだろうか。

ぼくは、自分が大切にしたいと思っていたことができなかったときや他者から傷つけられたときに沈む。

走って、本を読んで、寝て解消することもあれば、そうでない時もある。

そんなときにどうするかというと書く。

書いて書いて書いて、ようやくちょっぴり気持ちが晴れてくる。

そして、書いたことによって、その要因となった出来事にきちんと向き合って行動してみようと思えるのだ。

豆腐メンタル。

思った以上に脆く、いまだにコントロールできるものではない。

土門蘭さんは、Voicyで認知行動療法を紹介されていた。

モヤモヤした感情に蓋をするのではなく、どんな感情になっているのか、そして何によって引き出され、どう思ったのかを書き出す。

そして、反証。第三者の視点でその内容に対して意見を書き、反証に見て感じたことを書く。

最後に自分の行動を書いたら、おわり。

合う合わないはあるだろうけど、どう書くと自分のなかにあるものを出すかという点では、すごくよいと感じている。

自然と一緒

そして、土門さんの不安定になるということは、雲が変わりゆくように自分も自然の一部としてそういうものだと許容するという考え方は、そうだなと思った。

急にお腹痛くなったり、やる気になったり、いまだに自分でもわからないことが多いから。

そんなもんなんだと不安定さとも付き合っていく。

出てきた感情に対して否定するでも耐えるわけでもなく、そう思ってるんだなと受け止めて、そこからどうしようかと自分と話す。

そのときに目に見えるようにすると対話しやすいんだと思う。

いまこうしてnoteに書いているのもその一つの行為なんだなぁと再認識した。

この記事が参加している募集

振り返りnote

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?