『ゆるす』は何をもたらすのだろうか?

今夜は友人たちと『ゆるす』について語る会があるため、いろいろと自分の経験から掘り起こして考えてみた。

皆さんは、最近ゆるせないと思ったことはあるだろうか?

ぼくは、わりと寛容なほうだと思うのだけれど、睡眠を妨げられることに対しては、ゆるせなくなる。

それは、自分のなかで睡眠が大事で、次の日に自分だけでなく他の人にも迷惑がかかることになる可能性があるからだ。

このように、ゆるせないという感情を観ていくと、自分が大切にしていることき気づける。

聴すと書いて「ゆるす」と読む

コピーライターの阿部さんの『それ勝手な決めつけかもよ?』という本で感銘を受けた言葉がある。

「聴す」と書いて「ゆるす」と読む。聴くという行為は、相手の存在を受けいれること。だから「ゆるす」でもあるんだ

確かに。自分のこだわりを手放すこと、つまりそのことを許せなければ、相手の話や存在を受け入れることはできないかもしれないと思った。

ゆるすことが、もたらすこと。

それは、余白だ。

こだわりがあると、何かちょっと違うだけでも気になる。

DaiGoさんの発言に対して、ゆるせないと感じる気持ちが芽生えることは決して悪いわけではない。

その時に、その感情から批判するか別の方法を考えるかは、余白や余裕が自分にあるかだろう。

その発言者や行動した人に非があったとしても、その背景を考えられる人でありたい。

そうすると、その人を追い詰めることなく、新しい道が見つかるかもしれないから。

また友人たちと話したうえで深めていきたい。

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