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ヒュギーヌス『天文学について』(第2巻)翻訳⑥膝をつく者(ヘルクレス座)

膝をつく者

 上述のように、エラトステネースはこの星座を、「竜」の上に配されたヘーラクレースだと言っている。彼は戦いに臨むかのように、左手には獅子の毛皮を、右手には棍棒を持っている。彼はヘスペリスたちの守護者である竜を殺そうとしている。この竜は眠気に負けて目を閉じることは決してないとされており、これこそが守護者に任命された大きな理由であったと説明されている。パニュアシスも『ヘーラクレイア』においてこのことについて述べている。そのため、ゼウスは彼らの戦いに感嘆し、星々の間に置いた。竜は頭をもたげているので、ヘーラクレースの方は右膝をつき、左足で竜の頭の右側を踏みつけようとしている。右手は殴るように振り上げ、獅子の毛皮を持った左手は伸ばしているが、それはちょうど戦っているときのように見える。とはいえ、アラートスはこの星座が誰であるのか示すことのできる者は誰もいないと言っている。それでもなお、それらしい者について述べて、示すことを試みよう。

 前述のように、アリアイトスの場合は、この星座はリュカーオーンの息子でメギストーの父であるケーテウスであると言っている。彼は熊の姿に変えられた娘について嘆き、神々が自分に娘を返してくれるようにと、膝をついて両掌を天に向かって掲げているように見える。

 他方で、ヘーゲーシアナクスはこの星座はテーセウスであると述べている。この星座はテーセウスがトロイゼーンにて岩を持ち上げているところのように見えるが、それは彼の父アイゲウスがその岩の下にエッロピアー産の剣を置いたからである。アイゲウスはテーセウスの母アイトラーに、彼の力が岩の重さに耐えられるようになり、父の剣を取ってくることができるようになるまではアテーナイに行かせてはならないと命じていた。ゆえにこの星座のテーセウスは、できる限り高く岩を持ち上げ、取り除こうと力を入れているように見えるのである。また、少なからぬ者たちは、これと同じ理由により、この星座の近くに位置する「竪琴」はテーセウスのものであると言う。なぜなら、テーセウスはあらゆる種類の技術を教え込まれており、竪琴についてもまた学んでいたからである。アナクレオーンはこのことについてもこう言っている。「アイゲウスの子テーセウスのそばに竪琴がある」と。

 他方で、他の者たちはこの星座を、ムーサたちに盲目にされたタミュリスが膝をついて哀願しているものだと述べる。また別の者は、オルペウスがディオニューソスの秘儀を見たためにトラーイケーの女たちに殺されたところであると言う。

他方でアイスキュロスは、彼が書いた『解き放たれたプロメーテウス』という物語の中で、この星座はヘーラクレースだと言っているが、彼は竜と戦っているのではなく、リグリア人たちと戦っているという。というのも、アイスキュロスによれば、ヘーラクレースがゲーリュオーンから牛を奪ったとき、リグリアの地を通って旅をしたからである。リグリア人たちはヘーラクレースからその牛を奪おうとしたので戦いとなり、ヘーラクレースは彼らのうち多数を矢によって殺したという。しかし矢が尽きると、大勢の蛮族と武器の欠乏とに疲れ果て、今やヘーラクレースは多くの傷を負って膝をついてしまった。するとゼウスは息子を憐れみ、彼の周囲に大量の石を送り込んだ。ヘーラクレースはこの石を使って身を守り、敵を敗走させた。こうしてゼウスは戦っているヘーラクレースの似姿を星々の間に置いたのである。

 さらに、少なからぬ者たちは、この星座はヘーラーを犯そうと思ったために腕を縛られたイクシーオーンであると言う。

 また別の者たちはカウカソス山に縛り付けられたプロメーテウスであると言う。

・膝をつく者:「跪く者」という訳にしなかったのは、そうしてしまうと単にポーズの話ではなく、懇願しているとかそういうニュアンスが生まれてしまうから…というのは拙訳『カタステリズモイ』で述べた通りなのですが、『天文学について』の記述だと、後述のように懇願しているポーズとしても解釈しているようですね…。なので、今回は「跪く者」という訳でもいいかもしれません。なお、原文では「膝をつく者(跪く者)」はエンゴナシンEngonasinとなっていて、これはギリシャ語をそのまま写したものなんですが、なんでもかんでも語形変化させるギリシャ語・ラテン語にあって不変化という珍しい名詞です。なぜなら元のギリシャ語のho en gonasinは、「膝をついて」という状態を表す副詞句(en gonasin)に定冠詞(ho)を付けて名詞化したもので不変化(副詞はさすがに変化しない)なので、ラテン語でも不変化のまま名詞として使うしかなかった、ということです。
 
・上述のように…:「竜」の回のこと。ヘーラクレースの近くにあるので、「竜」はヘーラクレースと格闘して殺された竜であるとの話でした。
 
・パニュアシス:紀元前5世紀ごろの詩人。パニュアッシスとも。本文にあるように『ヘーラクレイア』の作者。この作品はタイトルからしてヘーラクレースを主役としたものと思われますが、残念ながら現存しません。
 
・前述のように、アリアイトスの場合は…:アリアイトスおよび彼が語るというケーテウス、メギストーに関する詳細は「大熊」の回参照。
 
・ヘーゲーシアナクス:紀元前2世紀ごろの作家。トローアス(トルコ北西部)の人。星座を題材に詩を書いたとされていますがやはり作品は現存せず。
 
・トロイゼーン:ペロポンネーソス半島の北東部にあった都市。まさにこのテーセウスの伝説で有名だったそう。
 
・アイゲウス:テーセウスの父でアテーナイ王。子供ができずに悩んでいて神託を聞きに行った帰り、友人のところに寄ると、友人は神託を理解してアイゲウスを酔わせて自分の娘アイトラーと床を共にさせます。こうしてできたのがテーセウス(ただし、本当はテーセウスの父はポセイドーンともされます。「冠」の回参照)。あとは本文の通り。
 
・エッロピアー:エウボイアー島の北部にある島で、刀剣の名産地だったそうです。つまり、アイゲウスは息子のために高級?な剣を置いておいたということ。なお、サンダルも一緒に置いておいたということですが、ここでは書かれていません。
 
・アナクレオーン:有名な叙情詩人…ではなく同名の別人らしいです。この人も星座にまつわる詩を書いたらしいですが、ここで引用されている作品はよくわからず…。(おそらく現存しなそう)
 
・タミュリス:伝説上の音楽家。すごい音楽家ではあったのですが、そのため思い上がり、もし自分が勝ったらムーサたち全員と寝るとかいうとんでもない条件でムーサたちに音楽勝負を挑みます。でもさしもの大音楽家も、音楽の神様相手には当然勝てず。そんな大それたことをした罰として視力を奪われることになったそうです。
 
・オルペウス:彼とその死に関しては「竪琴」の回にて。通常、「竪琴」(こと座)はオルペウスのものとされますが、ここではテーセウスの竪琴とされるのは面白いですね。それと入れ違い的に、この「膝をつく者」がオルペウスであると言われているのも珍しいです。
 
・『解き放たれたプロメーテウス』:悲劇詩人アイスキュロスの作品で、『縛られたプロメーテウス』『火をもたらすプロメーテウス』とともにプロメーテウス三部作を構成するとされます。が、完全な形で残っているのは『縛られた~』のみで、『解き放たれた~』は断片のみ、『火をもたらす~』にいたってはなんと1行のみなんだとか。
 
・リグリア:イタリア北西部の地域。ギリシャからイタリアとはいきなり地域が飛んだ気がしますが、それもそのはず、ゲーリュオーン(後述)の居場所は世界の果てだったので、ヘーラクレースは長旅を強いられることになったのでした。その道中で色々な事件にヘーラクレースは巻き込まれたのですが、それらはその土地の伝説として残ったとのこと。本文にあるようなリグリアでの一件もその一つということです。
 
・ゲーリュオーン: 3人の男が腹のところで繋がっているという姿の怪物。すなわち頭部が3つ、腕と足が各6本だったということです(日本で言う両面宿儺の3人バージョン?)。ヘーラクレースの十二功業の一つに「怪物ゲーリュオーンの飼っている牛を奪って連れてくる」というものがありましたのでヘーラクレースはこの怪物の住処に行くことになったわけですが、それが太陽が沈む世界の果てだったのでまず行って戻ってくるだけで大変だったのは前述の通り。
 
・イクシーオーン:本文にあるようにヘーラーを犯そうとした人。ゼウスは雲でヘーラーの精巧なコピーを作って彼を欺き、その雲と彼との間にはケンタウロス族が生まれたそうです(雲なのに生殖能力あんのかよ…)。この罪により本文では縛られているとだけ言われていますが、彼はさらに燃える車輪に括り付けられて永遠に回転させられ続けるという責め苦を受けているとされます。ちなみに彼は親戚殺しの前科があって、ゼウスにその罪を許してもらってのヘーラー強姦未遂ですから、ゼウスがこんなにキレるのもやむなしですね。
 
・カウカソス山:「コーカサス山脈」としてしまってもよかったんですが、ギリシャ神話的には「うっすら存在を聞いたことはある、なんか遠くにあるらしい高い山」的な感覚で言ってそうなので、念のため実在のコーカサス山脈とは区別してカウカソス山としておきました。


 この星座、現在では「ヘルクレス座」と呼ばれておりヘーラクレースだと確定されちゃってるわけですが、昔は色々な説があったわけですね。とはいえエラトステネースはヘーラクレースの話しか紹介していないので、ヒュギーヌスのこの多様な説を見てやっと「膝をつく者」なんていう曖昧な呼び方に納得できるわけですが。
 
 それにしても、オリオン座がかなり初期からオーリーオーンであるとされていたのに対し、この星座が「膝をつく者」なんていう、「膝をついているポーズをしている人間に見えるけど、それが誰なのかはちょっと確定できないですね…」みたいな遠慮がちな呼び方をされていたところを見るに、やっぱりオリオン座って、オーリーオーンって呼ばれているのが最初にあって、オーリーオーンの神話は後付けだったんじゃ?という気がさらにしてきます。
 
 話を戻しますが、この星座が他の説を押しのけて結局ヘーラクレースであるとされたのは、知名度の高さってやっぱりパワーだな!と思ったりすることですなあ。

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