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【サンプル版】狼の城プロローグ

第一章


車から降りると、瑠璃の目に石造りの洋館と、その奥にそびえ立つどっしりとした構えの日本家屋が映った。見たことのない大豪邸に目を見張っていると、肩にぽんと手が乗せられる。

「此処が今日からお前の暮らす家だ。さ、こちらへ来なさい」

そう促され、日本家屋の方の玄関に案内される。もうすぐ二月を終える空にはうぐいすの声が響き、ツツジや椿の葉が風に揺れていた。屋敷へ続く小道には使用人や女中、身辺警護らしき男達が並んでいて、瑠璃達が通ると一斉に頭を下げてくる。

「お帰りなさいませ、大旦那様」
「皆様は広間の方にもう集まっておられます」
「そうか、ご苦労」

隣を歩く老紳士が慣れた様子で返している。緊張しながら屋敷の中に入ると長い廊下が続いていて、その広大さにまたのまれてしまう。

(本当にすごいお屋敷…。鎧塚よろいづかのお屋敷も大きいと思ってたけど、ここはもっと広い…)

瑠璃は、昨日まで鎧塚家という父親の遠縁の親戚の家で暮らしていた。両親は幼い頃に事故で他界し、唯一の肉親だった祖父もすぐその後に亡くなったためである。

しかし、鎧塚家での瑠璃は女中として扱われていた。狭い部屋をあてがわれ、朝から晩まで働く。そうしなければ追い出されてしまうと思い、年の変わらない親戚の子供達から「こんな家なき子、うちには相応しくない」と嘲笑されても、ひたすら十数年働き続けた。

(それなのに、急に引き取ってもらえることになったんだよね…)

天涯孤独の瑠璃に、唯一小さい頃から会いに来てくれる男性が居た。亡き祖父の友人だというその老紳士は、瑠璃を実の孫のように可愛がってくれた。過去に何度か瑠璃を引き取る話も出たのだが、

「悪いが、しばらく無理になった。もう少し待っていてくれるか」

と申し訳なさそうに言っていた。大人の事情は幼い瑠璃にはよくわからず、言われるがままに長い年月を鎧塚家で過ごしたのだ。

その老紳士が今、瑠璃の隣にいる天城あまぎ龍之介りゅうのすけだった。食品加工学の知識を元に『天城工業社』を立ち上げた人物だ。『天城工業社』と言えば誰もが知る大企業で、龍之介は一代で巨額の富を築いた実業家だった。今は孫達と共に会社を経営し、会長職を務めているらしい。

しかし、そのことを瑠璃が知ったのはつい最近だ。鎧塚家を去ることになって、女中仲間達に挨拶をした時、

「え?七種さえぐささんのところによく来てたあのおじいさん、天城って言うの?」
「はい、今までは龍之介様と呼んでいたんですが、この前来た時に天城だと名乗っていらっしゃって…」
「天城龍之介って、確か有名な資産家よ」
「え……」
「天城工業社の創業者で…ものすごく大きな土地を持っている財界人だとか」
「……っ」

そんな会話を聞かされ驚いたのである。その後に女中達が調べたところによると、瑠璃を渡すのを渋る鎧塚の夫婦に、龍之介は大金を支払って納得させたという。

「あの、どうして…そこまでして私を引き取って下さるのでしょうか」

今朝、鎧塚家まで迎えに来た龍之介に瑠璃は訊ねてみた。すると龍之介は目尻の皺を深くしながら、

「お前の祖父との約束だったからだ。受け入れる態勢が整ったら必ずお前を迎えに行くとね」

それだけ言い、瑠璃の頭を撫でてくれた。還暦を過ぎているとは思えない精力的な笑みに凄みを感じ、思わず深く一礼した。

(でも、やっぱり祖父の名前は教えてもらえなかった…)

実は、龍之介と親しかったという祖父のことを瑠璃は何も知らない。一度も会ったことがないまま死別してしまったのだ。幼い頃から龍之介に何度も訊ねているのに、祖父の名前だけは何故か教えてもらえなかった。何もわからないままここに連れて来られ、環境の変化にまだ心が追いついていない。

「大丈夫か?緊張しているな」

俯いている瑠璃を見て、龍之介が心配そうに声をかけてくる。気を遣わせまいと、慌てて首を振った。

「…いえ、ただ、あまりにも大きなお屋敷なので驚いてしまって」
「迷子になるなよ。部屋数も多いから、慣れるまではあまり出歩かないことだ」
「わかりました」

そんな話をしながら奥の広間に通される。広々とした和室に入ると、中に居た者達の視線が一斉に向けられた。

「皆、待たせたな」

重々しい声でそう言うと、龍之介は瑠璃を自分と同じ上座に連れて行く。座った途端、全員が居住まいを正してこちらを見た。その光景に、重ねた手をぎゅっと握りしめる。

好意的な視線とそうではないものが混在していて、場の空気が複雑に揺れていた。すると龍之介が、

「今日から我が家の一員になる子だ。私の古くからの友人の孫にあたる」

と、瑠璃の紹介を始めた。

「遠縁の親戚に預けられていたんだが、私の一存で此処で暮らしてもらうことにした。妻が亡くなってから我が家には女手が無いから、何かと細やかな気遣いができるだろう」

龍之介の妻は病死したと聞いている。それを思い出していると、「お前の方からも自己紹介なさい」と優しく龍之介に肩を叩かれる。瑠璃は身を小さくしながら、全員に向き合った。

「…七種さえぐさ瑠璃るりと申します。よろしくお願いします」

微かに震えそうになる声を堪えながらそう言い、深く頭を下げる。「七種」は父親の姓だ。亡くなった祖父は瑠璃の母方の親なのだが、旧姓を教えてもらえていないので、祖父の名字も他に親戚が居るのかどうかもわからない。

(でもここに居たら、それがわかるかもしれない)

両親を事故で亡くした瑠璃にとって、家族のことを知らないのは孤独に拍車をかけた。鎧塚の夫婦も瑠璃の祖父や両親については詳しくなかったため、瑠璃の家族について知っているのは龍之介しかいない。

そんな事情もあって、この屋敷に来ることに前向きになったのだ。しかし、自己紹介をした後の雰囲気は冷たいものだった。

「…………」
「…………」

ほとんどが押し黙り、気まずい空気が漂う。すると一人だけ、

「よろしくね、瑠璃ちゃん」

と言ってくれた人物がいた。目を向けると、胸に金のロケットを提げた男が人懐っこく笑いかけてくる。少し迷ったが瑠璃は控えめに頭を下げた。

「瑠璃、今から私の孫達を紹介するが、瑠璃と同年代ばかりだから仲良くするといい」
「……はい」

そう言われるものの、孫と思しき男達は、先ほど「よろしくね」と笑ってくれた人物以外は冷ややかな表情でいる。

(う…、あまり仲良くなれる気がしないけど…)

そう思いつつ、並んでいる三人に視線を向けると、「ほら、お前達。自己紹介しなさい」と龍之介が促した。

「…………」

その中でも特に攻撃的に瑠璃を睨みつけていたのは、龍之介の一番近くに座っていた和服の男だった。洋装がモダンな今の時代で、折り目正しく着物を着ている姿はひと際目立っている。しばらく黙っていたが、きつく結ばれていた口が少し開いた。

「…長男の天城桐生きりゅうだ」

それだけ言うと、鋭い視線を瑠璃にじっと向けてくる。ただ見つめられているだけなのに身がすくむ思いがした。

(……っ怖い…)

まるで何かをとがめられているようで戸惑うことしかできない。何も言えずにいると、桐生の隣の整った顔立ちの男がそっけなく呟いた。

「…天城九葉くよう。次男。よろしく」

眉目秀麗だが全く隙の無い雰囲気で、長男の桐生とはまた違う凄みを感じた。九葉は瑠璃と視線を合わせようともしないで、そっぽを向いている。

「あー、やっと俺の番。みんな冷たすぎでしょ。瑠璃ちゃん、困ってるよ?」

桐生と九葉を交互に見つめていた時、隣から明るい声が響いた。瑠璃の自己紹介に唯一「よろしくね」と笑ってくれた人物である。

「俺は三男の天城柊哉しゅうや。趣味は西洋将棋で、好みの女の子は瑠璃ちゃんみたいな可愛い子。それから、好きな食べ物はねー…」

立て板に水のように話しかけられ、瑠璃は面食らった。それを見て龍之介が少し制する。

「柊哉、そこまでは聞いていない。喋りすぎだ」
「そう?桐生と九葉が何も言わなすぎるだけだと思うけどなー」

大して悪びれもせずに肩をすくめている。瑠璃と視線が合うと、さらに人懐っこそうに目を細めた。

「とにかくよろしくね。俺達、あんまり似てないけど三兄弟だから」

と、桐生と九葉を指さして言った。

「無闇に人を指差すんじゃない、柊哉」
「だって、この指は人差し指って言うんだよ?お祖父様」

どこまでも明るい声が広間に響く。気づけばこの場が柊哉の空気になっていて、先ほどまでの硬い雰囲気が和らいでいた。

「桐生は天城工業社の現社長、九葉は副社長だ。それから柊哉は営業部に所属している」

柊哉をたしなめていた龍之介が補足説明してくれた。そして、桐生達の向かい側に座っている長髪の男に声をかける。

「それから…、水無瀬みなせ
「はい」

水無瀬と呼ばれた男が即座に返事をした。礼儀正しい振る舞いだが、どこか危い色気を持っている。

「お前にも手助けをしてもらいたい。この辺りの地理や治安…、他にも瑠璃が困らないよう、時間を作って色々教えてやってくれ」
「わかりました」

龍之介に対する態度は丁寧だが、瑠璃には品定めするような瞳が向けられる。それに耐え切れず視線を逸らすと、微かな笑みが視界の端に映った。

「瑠璃、水無瀬は桐生の秘書を務めていて、此処に一緒に住んでいる。私はあまり時間を取れないから、当面は彼に聞きなさい」

龍之介の言葉にもう一度、彼と視線を合わせる。微かな笑みを口元にたたえると、瑠璃を見据えて低く落ち着いた声で言った。

「水無瀬あきらだ。宜しく」

容姿だけではなく声まで艶っぽい。年齢も桐生達より年上なのだろう。成熟した大人の色香にのみ込まれそうになる。

「それと、良平」
「はい」

龍之介が、一番奥に控えていた袴姿の男性に声をかける。すると、その男は素早く立ち上がった。

「彼はこの家で執事をしてもらっている。もう一人南雲なぐもという執事長もいるが、良平の方が瑠璃とも年が近いし、何かと世話になることも多いだろう」

龍之介に紹介されて視線を向けると、良平と呼ばれた男が一歩こちらに近づく。

黒江くろえ良平と申します。七種様、宜しくお願いします」

穏やかに微笑まれて、少し緊張が解けた。執事ならば、立場的に気安く話しかけることが出来そうだ。そんな彼が好意的な態度なのは有難かった。

そこに集まった全員の紹介が終わると、最後に龍之介が優しく言った。

「初めは何かと気遣うだろうが、自分の家だと思って楽にしなさい。わからないことがあったら、水無瀬や良平に聞くといい」
「……はい」

不安も大きいが早く覚えなければと思い、言われたことを頭の中で整理する。そんな瑠璃を見て、龍之介が笑って声をかけてくれる。

「そう硬くなるな。とりあえずは皆の名前と顔を覚えればそれでいい」

(確かに、まだ名前と顔が一致しないけど…)

それどころか、ここに居ることも実感が湧かない。少しずつ自分を馴染ませていくしかないのだと思い、改めて五人の男性に向き合った。

「…わかりました。あの、皆さん、よろしくお願いします」

そう言って深くお辞儀をする。しかし顔を上げると、桐生と九葉はさっさと席を立って出て行ってしまった。歓迎されていない空気におどおどしつつも、瑠璃には確固たる決意があった。

(祖父の名前も気になるけど、これからは龍之介様に何か恩返しができればいいな)

小さい頃から親切にしてくれた龍之介に何も返せていないことが、瑠璃はずっと心苦しかった。自分にできることは少ないが、これから出来る限りの努力をしたい。それだけは揺るがない決心として、瑠璃の心に強く刻み込まれていた。



初日の夜、ようやく一人になれた部屋で瑠璃は静かに息を吐いていた。

一通り屋敷を案内されたが、広すぎて全部は覚えきれない。龍之介はそんな瑠璃に、洋館二階の一室を自分の部屋として自由に使っていいと言ってくれた。

おそるおそるベッドに横たわると、美しく細工された天井が目に入る。鎧塚の家に居た時は畳二枚ほどの女中部屋でずっと暮らしていたので、こんな広い部屋で寝ること自体緊張してしまう。

(まだ気持ちが落ち着かない…明日からどうしようかな)

恩返しと言っても、自分にできるのは女中仕事くらいだ。祖父の名前を知りたいという目的と合わせて、ここに来たからにはちゃんと務めを果たしたかった。

祖父のことは直接龍之介に聞いても答えてもらえないだろうが、屋敷の者なら誰か知っているかもしれない。来たばかりで勝手なことはできないが、

(龍之介様は優しい方だし、一緒に暮らしていればいつかは教えて頂けるよね)

そんな期待も胸をかすめる。それ以前に、こんな身に余る生活を用意してもらったことに、瑠璃は深く感謝していた。明日からこの家のために出来ることをしようと思う。そのまま目を閉じて眠りに就こうとした時、

「………?」

キィと蝶番ちょうつがいの軋む音が聞こえた。ノックもなく誰かが部屋に入ってきた気配がして、思わず目を開ける。

「……っ、誰?」

慌てて身体を起こし入口の方を見ると、薄暗い中にぼんやりと人影が見えた。

「…桐生…様……?」

凄然とした和服姿に思わずそう呼びかけた。天城家長男の桐生が、何も言わずに瑠璃の方に近づいてくる。冷たい瞳でこちらを見据えたかと思うと、急に上から覆いかぶさってきた。

「……っ!な、何するんですか!」
「静かにしていろ。騒ぐな」

強い力で腕をシーツに押しつけられる。桐生はベッドに膝をつくと、上から睨みつけてきた。

「……っや、やめて下さい…!」

怖くなって唇が震えた。自分の身に一体何が起こっているのかわからない。すると桐生は、瑠璃の耳元に口を近づけて低く囁いた。

「お前の目的は何だ?」
「え……」
「天城家に来た目的を言え」
「も、目的なんて…、私はただ…」

祖父の名前を知りたくて龍之介についてきた、そう告げようとしたが、動揺してしまって言葉が出てこない。瑠璃が答える前に、切り裂くような冷たい声が響いた。

「いいか、俺はこの家の次代当主だ。この家を守っていく」
「…………」
「じいさんが何を言おうが、お前のような何処の馬の骨かもわからない女を天城家に入れるわけにはいかない。すぐに出て行け」
「……っ」
「それでも居座るようなら…お前は別の使いみちとして扱う」

桐生の口元に冷笑がたたえられ、首筋に顔を寄せてきた。

「…いやっ!やめて下さい!」

抵抗しようとしたが、力強い腕が暴力的に動き、無理やり組み敷かれる。慌てて押し戻そうとするが、全く歯が立たない。

(やだ…っ、誰か…!)

心の中で助けを求めるが、知らない家に助けてくれる人などいるわけもない。自分は今日来たばかりのただの居候なのだ。

耐え難い恐怖と寂しさが同時にこみ上げ、自然と瞳が潤む。しかし桐生は片手で瑠璃の手首を押さえつけると、もう片方の手で無理やり衣服を脱がそうとしてきた。

「……っ!」

慌てて身をよじらせるが、しっかりと固定された手は動かすことができない。何の感情も無い瞳に捉えられ、背筋にゾクッと寒気が走る。はだけた胸元にかかる桐生の呼吸が先ほどより荒くなり、必死に腕を動かし顔を振った。

「いや…!」
「……………」

瑠璃の瞳にたまっていた涙が頬を伝っていく。それを見た桐生は眉を深く寄せ、掴んでいた手をすっと離した。

「…わかったら明朝にでも去れ」

静かにそう言うと、桐生は起き上がってドアの方に向かって行く。

「…………」

去ってゆく背中に何か言いたいのだが、声が出てこない。乱れた自分の呼吸だけが部屋に響いている。

「女は信用しない。お前は天城家に不要だ」

桐生はそれだけ言うと部屋を出て行った。パタンとドアが閉まる音が聞こえ、身体中の力が抜けていく。

(……っ)

と同時に、一気に熱いものが目の奥を刺激する。はらはらと零れる涙が、シーツを少しずつ濡らしていった。

龍之介がどれだけ優しくしてくれても、ここは自分の居場所ではないのだ。招かれざる者としてこの先どうしたらいいのか、改めて孤独な現実を思い知らされる。

白く霞んでいく頭の中に桐生の言葉が残り、絶望的な気持ちになる。しばらく身動きもできず、瑠璃はそのまま泣き続けていた。


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