見出し画像

わたしにとっての詩の書き方~2023~

 なんだか最近どうでもよくなってしまったのですが、毎年「わたしにとっての詩の書き方」というものを書いていたので、書かないのも気持ち悪くなって書いておこうと思います。
 詩なんていうものは、そもそも文学なんてどこにもないのではと、思います。言葉は言葉のためにあるのではなくて、その源にある感情や想い、伝えたい形に為らないことを何とかして伝えたい欲求が生み出した動きであると考えています。例えば、手を触れた状態で伝わるものがあります。目線と手の感触で、本来はそれらは伝わるのです。触れ合えば、心は伝わる。
 しかし、一方では、赤ん坊の気持ちが分からないと悩む母親がいます。どんなに抱いても分からない子どもの気持ち。それは、赤ん坊自身が分からないのです。何かわからないけれど、泣きたいのです。或いは腹痛?或いは眠気?或いは暑すぎる?或いは空腹?或いは唯泣きたい?わたしたちにも、こんなときはあるでしょう。これを伝えるためにほとんどの人は言葉を覚えてきました。しかし、わたしは短い期間ですが、発達障害を持つ人たちの入居施設で働いたことがあって、そこで感じたことがあります。それは、発語出来ない人の感情が、より直接で純粋であることでした。泣くのです。涙を流さず、親が迎えに来ないことを泣くのです。声だけで、ただ窓を見て声と表情だけで泣いているその人が、どうしようもなく詩的なのです。
 言葉は本当に必須なのでしょうか。わたしたちはそれ無しでは、分かり合えないのでしょうか。言語の異なりにより、理解の相違が生じて、紛争は起こるのでしょうか。それは果たして人間として避けることの出来ない事実なのでしょうか。
 もしもこの世界から、言葉という言葉が一切無くなったなら。どうやってわたしたちは分かり合うでしょうか。それは出来ないことなのでしょうか。
 現在、鳥の一部に言葉があるという研究結果があります。生物は、信号として言葉を選ぶのかも知れません。意味を音声信号に乗せて、伝達することを言葉というならば、真空の宇宙ではそれはあり得ないことです。意味は表されることを待たず、自足してあり。というのは人間のエゴなのかも知れません。生き物は、特にある程度の知能があるものたちは、どうしても己から他へ伝えたいのかも知れません。
 喫緊の情報をアラートすることは、信号的です。わたしたたちは命の危機がない日常で、何を他に伝えたいのでしょうか。SNSで飛び交う画像、音声、文字たちは、本当は何を伝えたいのでしょうか。その奥底にあるものは何でしょうか。時々の承認欲求には、わたしはほとんど興味はありません。
 例えば、季節の移り変わりに揺れること。どんなに捨てようとしても捨てきれない面影の声を。そこに応じようとする空しい試みを。そして、それはきっと不変である人間、いやある程度の知性の営みであることを。幾千年も変わらない言葉の奥にあるもどかしさを。鳥たちの叫びを、魚たちの震えるような戦慄きを、虫たちが星を呼ぶ震えを、我らの止めどない涙の訳を、どうやっても書ききれない言葉で文字にしてしまうこと。それが詩であると、どうしても詩であるしかないと、わたしはもう諦めるように感じています。
 詩人の魂と、ヘッセは言いました。呪いのような、病気のような、吐き出さざるを得ない言葉の症状。季節の変わり目に、人との別れに、己への絶望に、そして遥かな高みからの招待に似た導きを感じるままに。暗い暗い海底より昇る泡が、月夜に輝く海面に浮かぶように。詩は泡です。どうしても昇っていく、言葉に捉われた詩人が吐く泡なのだと、わたしは今感じています。