「敗北のスポーツ学」第4章読書感想文。

第4章 クソ人間でも上手ければ許されるか?

クソワラタ問いw
え〜っと競馬のある騎手が浮かんじゃいましたがwww
え〜〜〜っと…許されるんじゃないですか?
ていうか許すもクソも……みんな違ってみんなクソなので………(逃げ)

読んでみます。

野球vsサッカー。

最初の節を読んで、野球好きの親父とサッカー好きの僕の対話を思い出してました。

一応先に言っておきたいのですが親父も僕もスポーツ観戦が好きで、野球もサッカーも好きです。でもどちらかと言うと、とディスりあったりしてしまうのです。

父「サッカーは点が入らん!つまらん!」
僕「そこにカタルシス!1点の重み!」
父「全然、試合動かないじゃん。」
僕「ずっと動いてる。野球はワンプレーで止まり過ぎやんけ、一瞬で駆け引きしろや。」
父「すぐ審判や相手に抗議するウザい。」
僕「心拍数上がってんねやからしゃあないやろ、野球なんか止まってる癖に全員でやるやんけ、サッカーは皆で止めに行く。」

いや、どちらが良い悪いじゃないです、どちらも好きですほんとに。

筆者はピッチ内で暴力や暴言が治外法権かのようにまかり通ってしまうこと、それがピッチ外の関係にも影響してしまうことに警鐘を鳴らします。

サッカーには「人間性」が不必要で「上手さ・速さ・強さ」が正義のように扱われますが、「人間性」こそが勝利するために必要だと考えて言語化に取り組む章のようです。

次の節、いきます。

僕達は複雑だ。

筆者のジャンケン必勝法のエピソード、僕も全く同じことやってたので本題から逸れてしまいますが披露します。

よく一緒に食事をして会計時にジャンケンする間柄の先輩がいました。僕はいつもチョキを出して負け続け、その次もチョキ、その次もチョキ、僕の誕生日の焼肉もチョキを出して僕が奢りました。でも銀座の寿司と松阪の牛の時だけ僕はパーを出して勝ちました。

このエピソードで筆者が言うのは、目の前の勝負だけでなく俯瞰して観ること。銀座と松阪で先輩は言いました「貸してw」これが必勝法です笑。

メタゲーム。デッキ構築力。

マジックザギャザリングや遊戯王などのメタゲームにおいて、デッキ構築から勝負は始まっているという話。

筆者は「足が遅い」というサッカーでは致命的にも見える問題を持っていましたが、それを早々に諦めて「どうやって生き残っていくか」を考え抜いてきたそうです。スタンスの取り方。

チームであれば「フィジカル」でもなく「戦術」ですらなく「全体」を観ていたと。

それは序章の指導者の言葉だったり、夢を持たず俯瞰的に観ていた筆者の姿だったり、第3章の「他者観」から導かれるもの。

木を見ず森を見よ。

あるレベルより上では個のスキルを磨いても違いを産み出すのは難しいし、環境が変われば捨てなければならないプレイもある。

サッカーを分解・分析して改善していく闘いは孤独。そうではなく全体を観て全体の中での自分を追求していくと、スキル以上に「人間性」が不可欠ではという問いが産まれた。

ジャイアントキリングが起こる時。

たしかにそこにはスキル以上の何かが降りているように観えます。選手一人一人が、チームの全員が、スタジアム全体が、何かに取り憑かれ突き動かされているような。

そう、僕達は複雑だ。

分解して言語化して単純にすると気持ちが楽になったり何処か納得できたりするので、ある程度必要なことだと実感してますが、複雑さを複雑なまま受け入れて飲み込む感性が最後には問われるのかも知れないですね。

複雑なままを愛せよ。最後の節、いきます。


うんこが漏れそうかどうか

節の見出しです笑。僕達が「何に迫られているのか」という問いです。なるほど。

要約:時にはアイデンティティを否定したりスキルを手放して新たなスタンスを取る、その判断を下す強度で自分とその取り巻く環境に向き合っているかが問われる。そういった経験を言語化し再現性を持たせ次のキャリアに生かす姿勢が本書の目的。

僕も今までアイデンティティが崩壊したり何かを手放したりスタンスを変えたりして来ましたが「強度のある判断」を下せたとは言い難いです。いや一度だけ、もしかしたら二度くらいはあったかも知れません。そこを思い返すと確かにそこには「他者観」があったように思います。

「クソ人間でも許されるか?」の問いには変わらず「みんな違ってみんなクソ」と答えますが、「ゴミ箱の中でセックスしよう」と叫んだ遠藤ミチロウのように、舌を失っても命を使い切って歌ったイノマーのように、ドブネズミみたいに美しくなりたいと思っております。

第4章おわり。続きはまた。


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