「敗北のスポーツ学」第3章読書感想文。

第3章 利他的なスポーツはあり得るか?

「夢をありがとう」とかの話かしら?それは幻想だよねとはココまでも書いてありましたが…それでも何か感じて自分に発破かけたり経済的にも地域を活性化したりなどは大きいとは思いますが…それこそW杯などは地球規模のお祭りですし…。どうなんでしょう?

読んでみます。


評価とモチベーション。

パズルが出来た子供に報酬を与えると報酬なしでは遊ばなくなってしまうという実験を例に挙げ、プロとして評価を得ることとモチベーションの間にはジレンマがあるという話。

ググったら論文出てきたので斜め読みしましたが、たしかにお金が賭かってないとパチスロなんかクソゲーだもんなと思いました(ちょっと違うか笑)料理人、家で料理したがらないがちとかもそうなのかな。

要約:Jリーガーはフリーエージェント社会であり個人事業主であるためモチベーションは死活問題。対して大企業における個人のモチベーションは全体のパフォーマンスにさほど影響はないのでセンシティブに向き合う必要はない。

たしかになあ。ブラックとかなんとか言っても、会社ってめんどくさいアレコレをやってくれるし守られてるしなあ。仕事くれるし、ありがたくて楽ではある。

でも近い将来、普通のサラリーマン達にもフリーエージェント社会、来るかもよ?という話も。その時、何がやれるのか。

というモチベーションのジレンマが前提にあって、この章の本題に入っていく。


誰のためにサッカーをするのか?

もちろん、自分が楽しいからやっていた。スタートはそこで、その延長線上でたまたまプロになった。「他者のため」でモチベーションは上げられるのか?という問い。

プロになれば他者からの評価が付き纏う。

それはクラブからの報酬という形を取るが、本質的にはスタジアムに来てくれるサポーターだったり放映権料だったりスポンサーだったりするハズなのに、その他者が観えない「他者観が欠如した」状態に陥りやすいと筆者は言います。

なるほどなあ。もう一度「誰のために」という問いに立ち戻るなら、自分以外の何者でもない。「勇気や感動」なんて与えることが出来るものではなく、観た側が勝手に感じるもの。「感動させてやる」というエンタメはときに傲慢で薄ら寒い。

今のアスリートが良く口にするのは「感謝」の気持ち。そういう意味での「誰かのために」は有り得るけれど、本質的にはどこまでも自分のためであろう。


人はどこまでも孤独だ。

私が最近考えてたこと。3大欲求と言えばだいたい食欲・睡眠欲・性欲が挙げられますが、それって動物の欲求だよなと。健康や安全が満たされた人間の3大欲求ってもしかしたらコレじゃないかな?と思いつきました。

「問う・描く・歌う」

この歌う部分が、サッカー選手なら走ることやボールを蹴ることや声を出すことだったり、監督なら選手のモチベーションを上げることやピッチ上にどんなサッカーをデザインするかということだったり、クラブならチームは勿論のこと地域とどう関わっていくかということだったりするのではと。

この3つの欲求はどこまでも自分のためであるけれど、他者が居なければ成立しないことでもあります。

人は人を感動「させる」ことなんて出来ないし人の考えを変えることなんて出来ないし救うことも出来ない。完全に理解することも出来ない。そういう意味で人はどこまでも孤独であると最近ヒシヒシ感じています。

でも感動「する」ことは出来るし変わることも出来るし救われることもある。分かり合おうとすることが出来る。

サポーターの3大欲求は「そのクラブチームに価値はあるのか?この先は?と問い」「チケットを買って観に行こうグッズを買って応援しようと描き」「スタジアムで一緒に闘い歌う」ことだと思うのです。

最後に筆者の言葉を引用します。

他者の存在について(中略)真剣に考えてみるべき(中略)。それはアスリートを孤独から救うこと(後略)

122頁

第3章おわり。続きはまた。


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