「敗北のスポーツ学」第2章読書感想文。

第2章 夢/やりたいことがないとダメか?

来ました、問いです。

第1章の後に鼎談が挟まれてて、その中で「夢ハラスメント」という言葉が出てきた。夢を持て!とか夢は叶う!とかもハラスメント足り得るんじゃね?みたいのがあって、そこに繋がる章なのかな。

「ダメか?」と立てた問い、だいたいダメじゃないと言いたそうだし、私も「夢」はなくても良いのかなあ?と受け入れ態勢。

でも「やりたいこと」は…どうだろう。

「やりたいことが分からない」というありがちなコンプレックスを抱えたままオッサンになったし、Jリーガーなど1つのことを継続してる人は真逆に見えて憧れやリスペクトがあったけども…

「やりたいことが分からない」には「やりたいことを親に否定され続けるとなりがち」というカラクリがあることを最近知って、なるほどまず親から授かった呪いを解かなければと納得したが、第1章で学んだようにアスリートも真逆の存在ではなく、親や世間から呪われてるのだとしたら…。

「やりたいことを見つけなきゃ」「やりたいことをやらなきゃ」という「べき」は呪いになりがち。そうではなく「やってしまうこと」に注目することが私の所属する読書サークルでは推奨されていて、それは苦もなくやっていたりするので自分では気付きにくかったりする。

呪いや自己を分解し、やってしまうことやるべきことやりたいことを一致させようと今の私は取り組んでいるので「やりたいことがないとダメか?」の問いには「ダメというか、ないってことなくない?」というお気持ち。

「やりたいこと」の指す意味が違うのかも知れませんが、さて、読んでみます。


諦める前に成功が来ただけ。

と筆者は、お笑い芸人・山田ルイ53世さんの言葉を引用します。この話は「上手に自分をあきらめよう」という記事にあったものだそうです。なるほど、腑に落ちる。

「諦めなければ夢は叶う」という姿勢は実際そういう人もいるかも知れないが、それは第1章で言うところの「ぶっ飛んだ人」かも。筆者のように「夢なんか持ってなかった」場合もあり「たまたま生き残っただけ」だと。

「努力すれば夢は叶う」という神話に捉われると、ともすると成功を自分の才能や努力の賜物と驕ってしまったり、夢叶わず諦める自分を否定してしまう。

例えば身体的特徴だったり考え方、プレーの癖や身を置いた環境、健康や運などなど、全てがドンピシャでハマったという場合があるのか。なるほど腑に落ちまくり。

読む前に語った「してしまうこと」の部分でもある。それがたまたまハマるのか、ハマらなければ上手に諦めるのか。

ここまで「夢なんてなくて良くないか」という話が腑に落ちた。次節の小タイトル「やりたいことなんてない!」さて。


無限の不可能性。

なるほど。筆者は「無限の可能性」だとか「好きなことをして生きていく」というようなキラキラした言葉への違和感を訴えます。

やはりJリーガーという特性上、そう見られてしまうし「キラキラ」への耳障りが前提としてありそうにも感じましたが、本質でもあると思いました。

言い換えるならば「無限の不可能性」「嫌なことをしないで生きていく」でしょうか。

前節、夢なんてなくても良いの本質は、自分を理解すること(どう生き残るか?)にあると考えます。「やりたいこと」を理解することは苦しい作業であると筆者は説きますが、私もまさにそれを今感じています。

一般的に18歳あるいは22歳で「やりたい」を見つけることを求められるが、そんなこと出来るだろうか?早い段階で最適解に辿り着く人はよほど知性があるか努力の天才かぶっ飛んでるかではないか。

そういう意味での「やりたいことなんて!」なのか。24時間闘えますかというコピーが流行った時代の話から自分の過去noteを思い出しました。ジョルジュ・バタイユさんの「呪われた部分」を読んで(読んでない)書いた感想(お前は何に蕩尽するのか!?)

筆者はディフェンダーというポジションの特性上、やりたいプレー(アクション)よりもリアクションを求められて来た、という点にハッと考えさせられます。

私はアクションがしたい。ボケとツッコミならボケたい人です。ツッコミが欲しい。ツッコミは最強のコミュニケーションツールなので……そのためには……………

う〜んやっぱり今、出会うべき本だったんだろうなあと感じてます。次の節いきます。


とにかくやれ。

僕に足りない部分なので耳が痛く、受け入れ難い節でした。

意志決定の前と後ろには「選択」と「実行」があり、筆者は「実行」に重きを置きます。これまで読んでいて「自分を知れ」というメッセージだと解釈していたので、裏切られた気分です。自分を知れば「諦めて」「選択」できるハズなので。

筆者にとってのサッカーは「間違えた選択」と感じたそうです。だけど「やった」。

僕も最初の仕事は「間違えた選択」だと感じていました。「やった」とは言い難く、3年で「諦めた」。でもそこで獲た経験やお世話になった人や辞めるきっかけをくれた人への感謝は消えません。辞めて鬱になったのは「やれなかった」という自己否定と「やりたいことが分からない」の再浮上でもあると思います。

「とにかくやれ」というメッセージ。しかと受け取めます。それでも僕は選びたい。選んだ上で「やります」。やりたいです。


どうせ苦しむなら実行で苦しめ。

前節の補足となっていました。まずは始めてみる、そしてとにかくやる。

要約:アスリートが「やりたいこと」や「夢」に向かうことの美学を感じさせてしまっているのなら、それは罪だ。なぜなら、そうじゃないから。

ぴえん。

でもここに「セカンドキャリアに苦悩するアスリートの構造的問題」はありますよね。なるほどたしかに。

アスリートの中でも「ぶっ飛んだ人」ほど多くメディアに出てくるし、我々も「夢をありがとう」なんて言ったりする。でもそれってにわかだよねとか言って地元の弱い方のチーム応援したり、メジャーではなく地下アイドルのファンになったり競馬ならシゲル軍団の馬券買ったりする人達は、そこを分かって暖かくみてるのかなぁなんて思いました。「ぶっ飛んだ人」には「ぶっ飛んだ(ぶっ飛んで見える)人の苦悩」があるんでしょうけど。

ここで筆者は、普通のサラリーマンである父親の言葉を引用します。

人生は先に楽をするか、あとで楽をするか

097頁

このあとに続く話が面白いのですが、あまりネタバレが多いのもアレなので割愛します。

苦難は不幸ではない。そこには価値がある。とにかくやろう。

と筆者は説いてます。

無限の不可能性を諦めて、始めてみよう。

第2章おわり。続きはまた。


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