「敗北のスポーツ学」第6章/終章読書感想文。
第6章 スポーツに価値はあるか?
最終章の問い「価値はあるか?」いやいやあるでしょ、即答しかけてちょっと待てと、ここまで読んで何を学んだのか、おさらいしようとnoteを読み返す。
序章「卑屈になるな、それがお前の特徴だ」
第1章「構造を責めるな」「感覚を研ぎ澄ませ」「お前は何者か」
第2章「無限の不可能性を諦めて、やれ」
第3章「他者観が必要」
第4章「複雑なままを愛せよ」「判断の強度、何に迫られているか」
第5章「期待すな、わかりあえ」
書いてる途中で思った。これだけのことを教えてくれるのだから価値はあるでしょうと。そこに価値ないとしたら解釈を拡げるともう宇宙に価値がないという話になっちゃう。
読んでみます。
単純さを求めてないか?
と筆者は問うてるように見えました。
序章、大学で「意味のない勝利」を手にした筆者の「何のためにサッカーをするのか」という問いからこの本は産まれている。
「勝つためだ!」「結果が全て!」
そういう人達はもしかしたら単純さを求めてないだろうか?ボールがゴールに入れば点が入る。相手より多く入れたら勝ち。とても単純で分かりやすい。勝つことでチームは潤うし更に強くもなれるだろう。
しかし、だ。
これがスポーツやゲームではなく、仕事や人生だったらどうだろう?
「稼ぐためだ!」「お金が全て!」
とても単純で分かりやすい。勝つことで会社や家族は潤うし更に強くもなれるだろう。
本当にそうか?そもそも、勝つってなんだ?チームや家族や人生が潤うとはどんな状態?
ゴールすれば点が入る、働けばお金が入る。そんなことは当然のルールであって前提。「多様性」や「自由」さえも、ルールの中にあると筆者は前置きします。
次の節、読みます。
抗え!闘い続けろ!
スポーツ、コスパ悪すぎ。日本一になった次の日も変わらない朝が来る。
スポーツは結果を切り取った美しいドラマではなく、勝利は新たな敗北への一歩目だ。
そこにそれだけのコストを注ぎ込むこと自体、正気の沙汰ではないしコスパも悪い。
「いやそうじゃない、得られるものがあるだろう」と僕みたいなものが反論すれば、そこには我慢を強いられるし結果への絶望も生まれると。なるほど。
掃除とか食事を作る仕事とか。
それは「秩序」と「一時的な勝利」を得る仕事だが、また散らかり食べられ汚れるという「無秩序」との間を永久的に繰り返す仕事。
スポーツにも勝利や成長といった何かしらの成果を求めるのではなく、この無秩序に抗い闘い続けることこそがアスリートの運命だと筆者は言います。
哲学だぁ。
ほぼ要約だけになってしまいました。自分の物語との邂逅ができない。なぜなら人に語れるような「やったこと」がないから。
ただ今は最低限の収入を得るため、無職からようやく仕事を探しはじめ、偶然掃除か食事を作る仕事かで目星ついたところなので、ただただ発破かけてもらった気分でいます笑。
労働は禅だと思って修養に励みたい所存。
半年無職をやっていて「何してるの?」と聞かれたら「考えごとしてる」と答えてましたが、その間に「仕事とは人を笑顔にすることである(にわかーず)」と見つけました。
そこにはやはり他者観が必要でしょう。
掃除であればそこを使う人、食事であれば食べる人が本質でしょうけど、それは見えにくい。ならばせめて同僚とか上司や取引先の人を笑顔にしたい、そんな気持ちで臨もうかと思っております。ありがとうございます。
最後の節、読みます。
マルセル・モースの「贈与論」
ついに出てきましたモースの贈与論、私が所属する読者サークルの伝説的課題図書でもあり、「贈与」は1つのテーマとして未だに語り継がれています。(読んでないけど)
筆者の要約を借りると贈与論は「人は贈与によって社会を形成してきた」という考え方で「例えば形式的な年賀状であっても贈られた側には返礼の義務が生じる、その煩わしさと引き換えに人は関係性を維持している」
これが資本主義においては少し様相が異なる例として、筆者が引用してくれた本が気になりました。
こちらのレビューによれば、エチオピアと日本でのフィールドワークによって抱いた違和感をもとに、モースの贈与論をたびたび引用しながら、社会の息苦しさを紐解いていくような本らしいです。
著者は文化人類学者で大学の先生ですね。
あ〜あ積読(スクショ)が増えちゃった。読者初心者なのでとりあえずはアチコチ別ジャンルも探索する予定ですけど、この「敗北のスポーツ学」は本当に参考文献が多くて、本の探し方も教えてくれている気がします。
話を戻します。
繋がり、だいじ。
人は贈与によって社会を形成してきたが、資本主義によりその関係は希薄になった。
これはネット社会やコロナ禍によってさらに加速しているのを感じられます。
しかしジワジワと揺り戻しが始まっている気もするんですよね。緊急事態宣言や買い占めの発生でお店に殺到する客の怒声や罵倒、それに反発するような若者の声がTwitterでバズったりするのを見るようになったからです。
11年前、私はある東京近郊の街にいました。北海道の田舎に比べ人の繋がりは希薄で、むしろそれが気楽だし繋がりは煩わしいとも思っていました。
震災がありました。古いアパートが崩れるんじゃないかという恐怖を感じましたが震度は5弱でした。6ってどれだけ揺れるんだろうと想像すると戦慄しました。
それから余震などもある中を5弱の街で過ごしていると、明らかに前より増えていたものがありました。井戸端会議です。
コンビニの店員さんもいつもと同じフレーズで応対してくれてはいるのですが、やけに優しい。まるで患者を看てる看護師のような労りの色がありました。
私が感じたのは「街全体が吊り橋効果」みたいな感触。それは1週間ほどで消えてしまいましたが、都会の人も田舎みたいに繋がれるんだなあと思いました。
繋がり、だいじ。
最近やっとそう思えたので、「いらっしゃいませこんにちわ」と言われたら「こんにちわ」と返すようにしました。「ありがとう」と言って商品を受け取る。だってありがたいですよね、もやしが30円で買えるんです。お店がなければどうするのか?ちょっと考えられない。
筆者は贈与論に絡めてサッカーの話をします。パスは贈与。パスには良いパスと悪いパスがある。1人かわしてパスするのは前者、苦し紛れのパスは後者。
この世界は複雑である。
例えばゴールを割られたとき、それはシュートを止められなかったキーパーが悪いのか?打たせてしまったDFが悪いのか、もっと前の段階か、ポジショニングか、一瞬の集中力か、選んだ戦術か、昨日のトレーニングか、その背景には無数に点在する要素が隠れていて、その原因を誰か1人や何か1つには絞れません。
この世界も同じです。何か問題があると誰か1人をバッシングして、多様性の名のもとに他を排除して単純化することを求めてはいないだろうか?この本からそんな矛盾に対する問いを感じ取りました。
人の繋がりと複雑性。
終章。読後感。
自由意志などあるのか?
第6章感想はネタバレ(要約)と脱線話で長くなってしまいました。ここはネタバレ少なめに読後感を書きたい。
人は変われるだろうか(変われないんじゃないか)
ボンヤリそう思った。
筆者は強い人に見えた。強い敗北者だ。
僕自身は弱い勝者(親ガチャ勝利)であるように思う。
「サッカーに呪われていた」「薄っぺらい表現を許せなかった」私の解釈を混じえた原文と違う表現になってしまったが、筆者にはこのような強さがあって、それは選手を引退しても変わらなかった。きっと呪いも。
僕はこの本を読んで変われただろうか?何を学んだだろう?
変わったことがあるとしたらそれは何かを少し「知って」「分かろうとした」ことくらいだろう。
筆者がどれだけ「夢なんてなかった」「夢を託すな」「期待するな」と言っても「それでも僕はスポーツを、アスリートを観ることで力を貰っている!」と思い続けている。
分かろうとしながら。
人は変われるだろうか?
もっと知らなければならない。
「敗北のスポーツ学」読書感想文おわり。
次の本は、またそのうち。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?