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「見られる用文化」のはざまで⑨ーまーちゃん

まーちゃんがすごいです。

…っていきなり言われても、「まーちゃんって誰ですか?」って感じですよね。モーニング娘。'19のメンバー佐藤優樹(さとうまさき)ちゃんのことです。

と言われて、「最近話題のあの子か!」とピンと来た人もいるかもしれません。話題というのはこちらの一件です。

この佐藤優樹さんの発言について、ざっと見たところモーニング娘。ファンの方々にもおおむね好意的に受け止められているようですが、世間には「水着グラビアをやっている他のアイドルを馬鹿にするのか」とか「プロ意識が足りない」みたいな意見もあるようです。

しかしそれ以上に、私が気になっているのは、好意的に受け止めつつも、「佐藤はいつも通り自由に発言しているだけなのに、勝手にフェミニズム的文脈で捉えられている」といった声が散見されることです。

まあかくいう私も、記事の文面から伝わってくる「佐藤優樹」のキャラクターがあまりにも本人と食い違ってしまうのではないかと危惧して、彼女の愉快な一面が見られるYouTube動画をわざわざツイートしたりしてしまったのですが。

しかし、かといって「まーちゃんは何も考えずに自由奔放に好き勝手言ってるだけでしょ」みたいなのもモヤっとするわけです。自由奔放・天衣無縫・超人宇宙人な彼女にも、彼女独特の知性とプライドと正義感があると、これまでも感じていたし、今回の発言もその一端のように私には思えるのです。

佐藤優樹というアイドル

モーニング娘。加入当初から、佐藤優樹「まーちゃん」のエキセントリックな振る舞いは話題になっていました。
大先輩の道重さゆみや田中れいなに「みにしげさん」「たなさたん」と珍妙なあだ名をつけて懐く様子、ダンスの先生が他のメンバーに「おしゃべりしてないでダンス覚えなさい」と注意したら、「まーちゃんは寝るのと覚えるのどっちをしたらいいですか」と道重に聞いたエピソードなどで、天然キャラとして知られるようになります。

特にびっくりしたエピソードは、握手会での対応。ブースの机の下に隠れていて出てこない、机につっぷしている、握手してくれない、まともに会話してくれないなどなど。機嫌にもかなりムラがあるそう。
慣れたファンは「これぞまーちゃん」と楽しんでいるようですが、初見の人が知らずに行ってショックを受ける事件も起こっているそう…
若い女性ファンが行ってもそういうことがあるそうなので、単純に狭いブースに長時間とどまって同じことをし続けるという状況が、極端に苦手なのかもしれません。

しかし、そんなエピソードを聞いても、彼女のパフォーマンスの成長度を見れば、どれほど音楽とエンターテインメントにまじめに向き合っているアイドルなのか、わかってしまうのです。

ハロプロ研修生ではない一般公募からの合格者としてモーニング娘。に加入した佐藤は、当初歌もダンスも素人レベル。12歳という年齢でビジュアルも子どもっぽく、この時点で現在の「表現力の天才・佐藤」の姿を想像できていた人は、いるとしたらつんく♂氏くらいではないでしょうか。

ここまでの成長は、天性の音感とリズム感の良さ、感性の豊かさもあったでしょう。しかし、元々のアニメ声っぽい発声から低音を強化し、粘りとパンチのある歌唱へと進化させたのには、並々ならぬ努力があったとしか思えません。
「あの」まーちゃんに、そんな努力家のポテンシャルがあったということに、後になって驚いたファンは多かったと思います。
今や佐藤優樹は、リーダー・譜久村聖、エース歌姫・小田さくらと並ぶ3大歌唱力メンとして、グループの中心的存在となっています。

フェミは褒めるよ、素晴らしいことを言ってるから

そんな超独創的アイドル佐藤優樹の今回の発言なわけですが、この発言をもって「素晴らしい!」と褒めているフェミニストの人々が「まーちゃんを誤解している」というのも、それこそ誤解だよなあと思ったりもします。

べつに佐藤が女性の権利を意識して話しているとか、そこまで深読みしているフェミニストのほうが少ないと思いますよ。褒めているのは、彼女の発言が、そのままそのものとして素晴らしかったからです。

佐藤は簡単な言葉を知らなかったり、主語やら述語やら抜けていて何を言っているかさっぱりわからないことも多く、決して言葉で伝えるのが得意なタイプではありません。メンバーですら「何を言っているかわからない」と言っていたりします。

なぜ水着になるのが嫌なのか、と問われると彼女は問い返します。

「じゃあすっぽんぽんで原宿の竹下通りを歩いてくださいって言われたら歩けます?」

これ、たぶんですけどね、「水着」という恰好自体が世間一般として「裸のようなものだ」と言いたいんじゃないと思う。一般論ほど佐藤優樹と噛み合わないものはないですし(笑)
本人が嫌がったり恥ずかしがる恰好をさせて写真を撮るのは、裸で歩けと言っているのと同じだ、と言いたいんじゃないかと思うのですよ。

自ら進んで水着グラビアを撮っているアイドルを、外野からジャッジして「はしたない」と眉をひそめるような人じゃないことは、私以上にディープなファンの方々はよく知っていることと思います。

しかし、このラジオに一緒に出演していた元メンバーの飯窪や、メンバーの横山に聞くと、2人とも水着撮影はやったけれど恥ずかしかった、嫌だったと正直に答えるのです。
恥ずかしい、嫌だ、と思いながら撮影されてしまったアイドルがたくさんいる。そんな状況の中に佐藤もずっと身を置いてきた。そこから出てくる、

「(水着の撮影を要請する大人の)軽々しく考えている脳みそをどうにかしたほうがいいんじゃないかなって思っちゃう」

という言葉なわけです。
佐藤は感覚として、「自分の身体は他者に侵害されてはならない」ということをよくわかっているのではないかと思います。独創的な彼女の感性を大切に育ててきた、ご両親の教育のたまものかもしれません。
そして、

「仕事なら私に1億8000万円欲しい。ヌードは600億円」

と言う。これに対する、「お前に600億円の値打ちあんの?」というさんまの問いは、完全に消費する側の視点で、商品として見ている発言です。
人間に対して「お前に●●円の値打ちあんの?」ってとんでもない言葉ですが、女性の美が消費されることが当たり前の世界では、何の疑問もなくこういう言葉が出てきてしまうのだと思います。
さんまは、これが酷いことだとも思わずに、世間にいくらでもいるおじさんの、「普通の感覚」で言ったのでしょう。

これに対して佐藤の答えは、まったく視点が違っています。

「(600億円の値打ちは)ひとりひとりみんなありますよ。さんまさんだってそうだし横やんだってそうだしスタッフさん全員に」

この言葉こそが、今回多くの人が評価し感銘を受けたところではないかと思います。
佐藤は消費される対象としての価値の話ではなく、人間ひとりひとりにどれだけの価値があるかという話をしているのです。

佐藤本人にフェミニズムの意識がなかったとしても、この言葉だけで十分にフェミズム的文脈で評価される理由があります。

それは、さんまのような見方のほうが、世間に広まっている一般的なものの見方だからです。つまりそれは、「女性は見られる用である」というスタンダードです。
「見られる対象」として評価されることが、女性がひとりの人間であるということよりも優先される。そんな「見られる用文化」の蔓延する世の中にあって、佐藤はそんな世間の価値観をものともせず、当たり前に「ひとりひとりの人間の価値」を主張したわけです。

「見られる用」にならないアイドル

佐藤の発言は、彼女がアイドルという仕事を選んでいることと矛盾するのでは?という声もあります。
アイドルは「女性として容姿を消費される仕事」なのだから、それが嫌ならやめればいい、と。

しかし、「自己表現」と「消費される」ことは全然違うということは、誰よりも佐藤優樹のパフォーマンスを見れば、実感することができます。
佐藤は曲の世界に入り込んで歌い踊るために、最近ではその表情のセクシーさにも、注目が集まっています。ステージ衣装には水着ほどではないにしろ露出度の高いものもあります(これに関してどこまで同意しているかはわかりませんが)

しかし、歌って踊っている時の彼女がどんなにセクシーでも、それは佐藤の自己表現です。自分自身のパフォーマンスを発揮してステージに立っている彼女は、他者に侵害されることのない佐藤自身としてそこにいることができるのでしょう。

以前にもアイドルについての記事を書いたとき(「見られる用文化」のはざまで⑥ーアイドルは「見られる用」にならなくていい)、私はこんなことを書きました。

アイドルになることは、=モノ化され、「見られる用」化され、消費されることを、甘んじて受けなければならないということではないと思います。
彼女たちのエンターテインメントへの情熱と、人間としての尊厳は両立するべきです。
観客を楽しませること、「見せる」ことは、主体性のない「見られる用」の人間になることではありません。

佐藤優樹というアイドルは、まさにこの言葉を体現するかのようなアイドルではないか…と思います。
今回の件に関して、「佐藤優樹は次の瞬間にはフェミニストを怒らせるようなことを言うかもよ」みたいに書いている人も見かけました。まあそういうことも、もしかしたらあるかもしれません。
でもきっと彼女は、観客を楽しませることを追求しながら自分を大切にすることは、やめることはないだろうと思います。

今回はたまたま「水着」が佐藤の自己表現ではなかったというだけで、水着グラビアこそ自己表現の場だという人もいる思います。ヌードこそ自己表現という人もいると思います。それはべつに芸術目的だからとかいう理由でなくても、ポルノとしての自己表現でもいいし、「話題になって売れたいから」でもいいと思います。

大切なのは、どんなことを自己表現の場として選んでいる人であっても、「これは自分の表現ではない」ということを強要される理由にはならないということです。
「その表現が性的であるかどうか」ではなく、「その人自身の選んだ表現であるかどうか」によって、その人がモノ化され、「見られる用」化され、一方的に消費されることになってしまうかどうかが決定するのではないでしょうか。

(以上全文無料)

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