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「見られる用じゃない」、ただの自分になる

前回すっぴんで過ごすようになったことを書いたんですが、そのことでふと思ったことがあります。

女性にとって今の自分が「見られる用の自分」「見られる用じゃない自分」かって、ものすごく大きな違いなんじゃないかと思うんです。

それと同時にこの感覚は、多くの男性には理解しがたい、かなり隔たりのある感覚なんじゃないかと。

「見られる用じゃない自分」でいられるという人権

私は「見られる用の自分」を作るのも結構好きなんですよ。コスプレイヤーと呼べるほど本格的ではないけれどコスプレをしたことも何度かあるし、観劇の時はよく演目に合わせたドレスを着て行くのを楽しんでいます。

それと同時に、日常生活で「見られる用の自分じゃなくていい」と思う場面が年々増えてきたなあ、とも思うんです。

私はある時からコンタクトがどうしても合わなくなってしまって、普段はメガネをかけています。
コンタクトの方が視力が高くなるので、舞台や美術鑑賞など必要な時や、ついでに知人の結婚式などドレスアップした時のために、使い捨てコンタクトを併用しています。

メガネをかけても顔の印象があまり変わらない人もいますが、私は大きく印象が変わるタイプのようで、家族や知人に、「メガネを外している方がきれいに見える」「もったいない」と言われることがままあります。

でも、自分自身がいつでもどこでも「きれいな人」に見られたいかといったら、正直そうでもないんですよね。
「きれいになりたい」と全く思ってないかといったらそうではなくて、自分で選んだオシャレをするタイミングに自分の気に入る容姿でありたいとか、そのために良い体型や肌の状態でいたいとかいう、俗な感情もそれなりにあります(笑)
ですが、それを見られるのがいつもじゃなくていいんです。
職場の人とか、友達の前では別に「メガネの人」でいい。そして、最近ではそれがさらに進化して、「すっぴんの人」でいい、となってきました。

「見られる用の自分」を作り上げることは創造的で楽しいことだし、それは決してネガティブなことじゃないと私は思っています。
でも、「見られる用じゃない自分」を見せてもいい範囲が広がることって、女性として、人間として、自由が広がることに直結している気がするんです。「見られる用じゃない自分」でいられることは人権なんですよね。

礼儀を守っても「ただの自分」でいることはできる

そうは言ってもTPOは必要だとか、身だしなみは大事だとか思う人もいるかもしれませんが、TPOを考慮することと「見られる用の自分」を作ることは、微妙だけれどかなり違うことです。

職場に行く時、友達と会う時、私は化粧こそしませんが、行き先や出会う相手のことを考え、髪をとかし、部屋着ではない外出用の服を着て、それなりに清潔感や匂いに気を配り、身だしなみを整えます。
それでも、「見られる用」ではない、自分自身であるだけの「ただの自分」だと感じることはできます。
どこからが「見られる用」でどこからが「見られる用じゃない」かという線引きは微妙で、自分自身の感覚次第であり、他人がそれを決めることはできないんじゃないかな、と思います。

私の場合はノーメイクであることがその感覚につながりますが、人によっては自分らしいオシャレをすることや自分らしいメイクをすることで、見られることを意識しない「ただの自分」になれるという人もいると思います。

「礼儀を怠らないこと」と「ジャッジの視線に応えること」は違います。礼儀正しくしていても、他者の勝手なジャッジを跳ね返すことはできる。
つまり、もしあなたの服装やメイクを誰かが勝手にジャッジすることを甘んじて引き受けてしまっているなら、それはTPO云々を越えて、あなたが侵害されているということです。

大事なのは、いついかなる時も「見られる用の自分」になることを強制されることはない、ということなんだと思います。
自分自身を鑑賞される客体として演出することを、「しなければならない」場面なんて本当はないはずなんです。

性差別の根っこ

これは女性にとってものすごく重要な話だと思うから書いているんですが、同時に、この話がさっぱりわからない男性は多いのではないかと思います。
“「見られる用」とか「見られる用じゃない」とか気にするからさらに不自由になるんじゃない?”なんて、親切のつもりで言ってくれる男性すらいそうな気がします。

私はそのわからなさこそ、性差別の根っこのような気がしてならないのです。

最近ではタレントのりゅうちぇるさんのような、自分自身を鑑賞される客体として演出することに積極的な男性も現れてきました。昔でいえば、デビット・ボウイや忌野清志郎も「見られる用の自分」を演出する男性でしたが、彼らには“アーティストとして尊敬されている”という基盤がありました。(その点でいうとりゅうちぇるさんのような存在は画期的かもしれません)

それでも、今もなお「見られる用の自分」を作るなんてことやったこともない、という男性は世の中に多いんじゃないかと思います。
むしろ男性にとっては、それはちょっと「恥ずかしいこと」だったり、「男として不名誉なこと」だったりする感覚もあるんじゃないでしょうか。

シスジェンダーの男性が一度何かのきっかけに女装をしてみると、ものすごく喜びを覚えるということが、結構あるようです。近年の「男の娘」という人たちも、それぞれに自認は違うと思いますが、「女性になりたいわけではない」という人がかなり多いと聞きます。

シス男性が女装をした時に感じる喜びは、「見られることを意識して装ってもいい」「見られる用の自分を作っても男らしくないと断罪されない」という喜びなんじゃないかと思うのです。

そう考えると、女性には「見られる用の自分」を作らなくてはならない抑圧がある一方で、男性には「見られる用の自分」を作ってはならない抑圧があり、双方に苦しみがあるように見えます。

まあ、双方に苦しみがあるということ自体は、認めてもいいかもしれません。
でも、一方は誰のジャッジにも晒されない「ただの自分でいる」ことの権利を奪われている状況、もう一方は自己演出したい時にその自由を奪われている状況、もちろん後者も深刻な悩みになりえますが、同等に並べるのは変じゃないか、と、思い切って言ってしまう必要があるように、今思うのです。

このことは、「差別コスト」の話にもつながるように思います。

「差別コスト」は韓国の作家ソン・アラム氏の講演の中で語られた言葉で、Twitterユーザーの方が日本語字幕をつけてくれて、Twitterに投稿しています。

世界中のさまざまな国で、女性はかつてほとんど外出することも許されていない存在でした。身の回りのごく限られた人間以外に顔を見せてはいけない慣習があったりもしました。
たまに外に出られるようになったとしても、小さすぎる靴を履いたり、籠に乗ったりと、身体の自由を奪われた状態に置かれ、そのままの姿を見せることは恥とされ、白粉を顔に塗る、コルセットで胴を極限まで細く見せるなどの制約が課せられていました。
女性は歴史的に、そのままの自分ではない「見られる用の自分」を装うことが義務付けられ、そうしなければ外には出られないという「檻」に入れられてきました。

そんな歴史の中で、メイクをし華やかな装いで自分を飾り立てることは被差別者の女のやることであり、立派な男のすることではないという認識が、現代に至るまで少しずつ植えつけられてきたのではないでしょうか。
結果、男性が「人に見られることを意識した華やかな装いをしたい」と願っても、そこに高いハードルがあるのは、「男性差別」ではなく「差別コスト」の一つなのではないでしょうか。

「これじゃ外に出られない」という檻

女性は「見られる用の自分」を装わなければ外に出られないという檻。
この檻は今も存在していると、私は思います。

みなさんの「外に出られる」格好の許容範囲はどこまでですか?
近所のコンビニに行ける、電車に乗れる、仕事に行ける、友達と会える…それぞれの場面ごとに、許容範囲はけっこう変わってくると思います。
ラインをどこで引くかは人によりけりですが、おそらく相対的に、それぞれの場面での女性の許容範囲の最低ラインを聞いて、同じことをしろと言われたら、目眩に襲われる男性はたくさんいるのではないかと思います。

「こんな格好じゃ外に出られない」「こんな格好じゃ〇〇には行けない」そのハードルが高いところにあるほど、檻の中に囲い込まれてしまうように思います。
それは「メイクやおしゃれを楽しみたい」という積極的な気持ちとは別のものです。
「女性はメイクやおしゃれが好き」だと、半ば社会通念のように言いふらされていて、女性自身もそう思い込んでいる人は多いかと思います。しかし、好きか嫌いかを判断するより先に、自分を取り囲む檻の錠前をクリアして外に出るためのメイクやおしゃれをしている瞬間はないでしょうか。

(※ちなみに、女性の中でも趣味としてメイクやコスメを愛好している人はかなりのオタク知識と情熱を持っていて、私がするのと同じメイクとは言えないレベルです。一緒くたに「女だからメイク好き」で片付けてしまうのはコスメオタクにも失礼だなあと思います)

私自身、だいぶ自由になってきたとはいえ、まったく檻がなくなったとはいえません。心のどこかにまだ「これでは恥ずかしい」とか「この顔で出て大丈夫だろうか」という気持ちが見え隠れし、私の行動を支配します。

どこへ行くにも檻の存在を意識せずに済むようになったならば、女性はどこまで遠くへ行けるのでしょう。

おまけ

この文章を書いている途中で、タイミングよくこちらの記事を読みました。

この「キズナアイ」というキャラクターの児童向けの教育関連サイトへの起用の仕方に批判が起こり、それに反論して女児向けにプリキュアを見せるのと何が違う?という声もあるようです。

イラストやデザインを見慣れている層には、プリキュアのような女児向けキャラクターにはないバストラインの強調やへその見える衣装が目につきますが、「同じような可愛いキャラクター」と認識する人もいるかもしれません。

しかし、扱われている話題に対して無知で意識も低く(理系が苦手)相槌を打つだけの表象をされたキャラクターを見た時と、自らが物語の主人公として主体的に活躍する女児向けアニメのキャラクターを見た時と。

子どもたちは、それぞれどんなメッセージを受け取るのでしょうか。

「女の子は常にかわいい容姿を見られるために存在すべきだ」と思うのか。
「女の子は見られる用ではないただの自分自身として生きられる」と思うのか。

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