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「見られる用文化」のはざまで⑦番外編ー女の子と友達になれるのは誰か

今回は番外編として、「女の子と友達になれるのは誰か」というテーマで書きたいと思います。

これまでこの連載シリーズでは、「女性は見られる用の存在であるべき」とする「見られる用文化」がこの社会に存在している、という話をしてきました。

生まれて「女の子」と呼ばれた瞬間から、人としてではなく「女」として扱われる瞬間が、折にふれ訪れます。
物心つくかという頃から、「女の子は人目を気にするべき」と教えられると同時に、「人目を気にしている」ことを「やっぱり女だ」「女は面倒くさい」と揶揄され、蔑まれて育ちます。

こういう幼少の記憶は、「女性として生まれ、育てられた人」にしかないものでしょう。

Twitterの議論に関して

今回「女の子の友達になれるのは誰か」という番外編を書こうと思ったのは、現在Twitterで、「女性専用の場所にトランスジェンダーの女性が入ること」について話題になっているからです。

議論のきっかけは、2018年7月に、お茶の水女子大がトランス女性(※追記)の学生の受け入れ決定を発表したことだそうです。

事の経緯や、この問題をフェミニズムやジェンダー研究の観点からどう考えるべきなのかということについては、堀あきこさんが書かれた記事が丁寧なので、ぜひご一読ください。

Twitterでは、「トランス女性だと偽れば性犯罪ができる」と煽る男性の声、トランス女性の身体的特徴への差別的暴言、またトランス女性側からも被害を怖れる声を揶揄しようとするために、わざと加害を示唆するような発言をしてしまう事態もあり、どちらを向いても加害にあふれていて、まさに惨状と言うべき状況です。

トランス女性側からの加害発言も、性被害を軽視するものであり許されることではありません。
しかし、被差別マイノリティがいわれなく恐怖の対象とされるということは、民族差別や野宿者差別などにおいてもよく起こることです。そういう恐怖感情を示されたときに、反発から、被差別者がわざと恐怖をあおる言動をとることもありうるでしょう。
その言動自体を肯定はしませんが、そういった反応が出てしまう状況に、私は悲しくてたまらなくなります。
そもそものお茶の水女子大の決定は加害でもなんでもないわけですから、それに対する反応は、「いわれなき差別的な恐怖感情」の表出だったと思います。それを受けて、被差別者からわざと加害的な発言が出るって、なんかもう、むちゃくちゃに悲しい状況ですよ。

こんな状況に、自身のセクシャリティについて否定的感情や不安定なメンタルを抱えている人が絶望し、思いつめてしまうことは十分ありえると思います。

「なぜ女性ばかり啓蒙しようとするのか」

ところでこの話題の中で、よく語られる、こんな言葉がありました。

「なぜ女性ばかりが正しくあることを求められるのか」
「なぜ女性ばかり啓蒙しようとするのか」

この「女性」という言葉からは、ナチュラルにトランス女性が排除されていて、その時点で凄まじくすれ違いを感じるのですが、このフレーズ、私にとっては少し以前にも聞き覚えのあるものでした。

それは、アニメ『HUGっと!プリキュア』の内容が革命的にジェンダーレスだと話題になった時のことです。

「男の子もお姫様になれる」というセリフが出た回は、そもそも「女の子もヒーローになれる」がテーマとされていて、しっかりとフェミニズムに基づいたうえでジェンダー規範にとらわれない男の子と手を繋ぐ様子が描かれた回だったのですが、しかしこの時も、
「なぜ女の子ばかりがジェンダーレスな価値観を啓蒙されるのか」
「女の子ばかり正しくあらねばならないのか」
という批判が起きました。
「プリキュアは男の子を勇気づける前に、女の子をエンパワーするべきではないのか」
という声も多くありました。

その時私は、「アンリくんがプリキュアと友達になることは、女の子にとっても勇気づけられることなのにな…」と思っていました。
男性として特権を持つ人が仲間になるから、とかいうことではありません。
友達になれるかもしれない、手を繋げるかもしれないと、お互いに少し離れて見つめあっていた相手と、「本当に友達になれるんだよ」と伝えるエピソードは、プリキュアを観ているすべての子どもに勇気を与えると感じたのです。

自分の中の小さな女の子、傷ついた小さな存在

少し戻って、「女性として生まれた人」が「女の子」として体験することを振り返ります。

生まれて「女の子」と呼ばれた瞬間から、折にふれ人としてではなく「女」として扱われ、「女の子は人目を気にするべき」と教えられると同時に、「人目を気にしている」ことを「やっぱり女だ」「女は面倒くさい」と揶揄され、蔑まれて育つ。

多くのトランス女性は、こうした幼少期の体験はないのかもしれません。

プリキュアに登場した、ジェンダー規範にとらわれることを嫌うアンリくんも、きっと女の子が育つ過程での多くの悔しい体験はせずに育ってきたと思います。

幼少期に傷つき悔しい思いをした自分が、「小さな女の子」の姿をして心に残り続けている女性は、きっとたくさんいると思います。
同じような体験をした者同士が思いを分かち合うことは、心を癒し、勇気づけてくれる大切なことです。

けれど、自分と全く同じ体験をしている人は誰もいません。
私の体験した悔しさは、本来私にしかわからないものであり、それを誰かに話した時、共感し受け止めてくれるかどうかは、その人がどんな体験をしてきたかだけでなく、その人自身が歩み寄ろうとする心を持っているかにもよります。

トランスジェンダーとして生きてきた人の苦しさや、悔しい体験を、私は実感として知りません。
性別で分けられる場面が来るごとのストレス。公共の場を利用する時、例えばトイレで、更衣室で、入浴で、宿泊で、書類の性別欄で、毎回どうするべきか悩まされ、立ち止まらされるストレス。
それは私が体験していない日常です。

でもその苦しさや悔しさは、私の体験してきた苦しさや悔しさとつながっています。「男か女か」で人間を分ける社会によって、人間としての正当な扱いを受けられないという、同じ線上にある抑圧です。
きっとそこには私の中の「小さな女の子」と全く同じではないけれど、しかしどこか似たところがある、「傷ついた小さな存在」がいるのだと思います。
その小さな存在がどんな姿をしているかは、それぞれに違っていて、きっとトランスかシスか、セクシャリティがどうあるかに関わらず、「女の子」を抱いている人もいれば、違う何かを抱いている人もいるのでしょう。

「見られる用文化」の連載は、「女性」という性に対して社会はどのようなあり方をしているかを語るために、まずはさまざまな事象を紹介してみようと思って始めました。
でもそれは、そこで紹介する物事を体験しているかしていないかで、人をジャッジするものではありません。
シスジェンダー女性の中にも、幼少期にはあまり女性としての抑圧を受けずに育った人もいるかもしれません。

連載を通して私が伝えたいのは、子どもでも大人でも、シスジェンダーでもトランスジェンダーでも、ヘテロでもレズビアンでも、「女性」として見られるすべての人に対して、「見られる用」という枠に強制的に閉じ込める社会が存在しているということです。
個々の事象を語ることは、その説明として力を持ちますが、それは体験のあるなしで分断するためのものではなく、社会構造を解き明かすためのものです。

私は私の中の、悔しく苦しい思いをした「小さな女の子」が、誰と手を繋ぎたいか、誰と友達になりたいか、問いかけます。
同じ属性か、同じ体験をしてきたかは、私にとっては重要な基準ではありません。
これは私自身の運動の経験から言えることでもあります。仲間になるために大切なのは、直接自分に降りかかった問題でなくても自分の問題として考えられること、そして実際に一緒に動こうとする意志です。

そんなことを考えていた折、ちょうど2019年1月20日放送の『HUGっと!プリキュア』で、「プリキュアを応援する人すべてが、年齢・性別に関わらずみんなプリキュアになる」というぶっ飛んだパワフルなシーンがありました。
きっとこのシーンに関しても「プリキュアは女の子をエンパワーするものなのに、誰でもなれるものになっていいのか」という批判はあるでしょう。
しかし私には、あのシーンは、むしろ「人々を女の子の世界に引き込んだ」ように思えました。世界は、「女の子」と友達になることを求められている。「女の子」=「傷つけられた小さな存在」と友達にならない世界に救いはない。

裏切りを超えて「友達になる」

これは、シスジェンダー・トランスジェンダーを含めた、大人の女性たちにも問いかけられていることかもしれません。
私たちは、この社会の中で苦しめられている「小さな女の子」と、またそれに似たさまざまな「傷ついた小さな存在」と、友達になれるでしょうか。

差別が社会構造の問題である以上、誰もが少しずつ差別に加担し、差別を肯定して生きています。それ以外に選択肢がないからこそ、構造上の差別なのです。
私たちはみんな自分の中の「傷ついた小さな存在」を裏切りながら生きている。問題意識を持つほど、自身の裏切りを実感させられるでしょう。
それでも小さな自分と「友達になる」ことを選ぶのは、容易なことではありません。自身に突きつけられる罪は、その挑戦を続けるほどに、どんどん重くなるでしょう。

けれど、自分の中の小さな自分が傷ついているのを、見て見ぬ振りはできないと、間違いながら迷いながら、必死で手を伸ばす。それが、反差別という生き方を選ぶということなのではないでしょうか。

※追記
Twitterにて、「トランス女性」「MTF」の用語の使い方について重要なご指摘をいただき、一部訂正させていただきました。

現状では、私のようなアカデミズムにもジェンダー系の運動界隈にも疎い人間にあたれる資料で「FTM」「MTF」等の用語批判や「トランス女性」「トランス男性」という用語についての詳しい情報はなかなか見つからなかったのですが、とりあえず「トランス女性」「トランス男性」が「transwoman」「transman」の訳として正式に使われている語だということが確認できる情報はいくつか見つけることができました。(それまで「トランス女性」という語について深く知らず、考えてもいなかったことにも改めて気づかされ、反省しました)

また、語義的にも「woman/man」の方が「female/male」よりも文化的・社会的意味が含まれている表現だということがわかりました。

自分自身の感覚としても、「female to male(女性から男性へ)」「male to female(男性から女性へ)」という、「to」の表現がトランスジェンダーの性自認を的確に表しているのか?という疑問が以前からあったため、「トランス男性」「トランス女性」という表記を今後は積極的に使っていきたいと考えるに至りました。

そういうわけで、訂正・追記させていただきました。これについては今後さらに学びを深めていけたらいいな、と思っています。

(以上全文無料)

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