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「見られる用文化」のはざまで⑥ーアイドルは「見られる用」にならなくていい

ショッキングなニュースがありました。アイドルグループNGT48のメンバー、山口真帆さんが暴行被害にあった事件のことです。

アイドル活動をしているために被害に遭った女性がいるということ自体、近年繰り返し起こっていることですが、痛ましくショッキングです。
しかし今回はそれだけでなく、運営が事実を隠蔽し然るべき対処をしなかったために、被害者である山口さん本人がリークせざるを得なかったという事態が、より衝撃を与えています。

その上、1月10日の公演では、被害に遭った本人がステージに立ち「お騒がせしたこと」を謝罪。これには、「なぜ被害者が謝罪?」という批判の声が多くの人から上がっています。

その後運営サイドからも文書が出されましたが、山口さんが公表した「メンバーの個人情報をファンに流し暴行を示唆したメンバーがいる」という内容とは事実が食い違っています。

山口さんの自宅が知られたルートも特定しないまま、犯人への対処はグループのイベントへの出入り禁止のみという発表は、あまりに今回の犯行を軽視しています。
運営者が厳しい姿勢で問題にあたらなければ、今後さらにメンバーたちの安全を脅かすことにもなりかねません。

※運営者の責任を追求する署名も始まりました。

ぜひリンク先をご確認、ご署名お願いします。

おそらくですが、運営サイドにとって最もリスキーなスキャンダルは、メンバー内に暴行の幇助犯がいるということ。
本来ならメンバーの被害に最も怒りを表すべき運営が逆に犯人を庇うような行動を取っていることが、むしろ山口さんが訴えた内容の信憑性を増しているのでは…と考えます。

アイドルの主体性とアイドルファン

ここからは、今回の事件をきっかけに、私自身が「アイドル」というものとどう向き合うか、そして、どんな社会背景がアイドルへの加害を助長しているか、という話です。
お忙しい方は上記部分だけでも読んで、署名にご協力いただけたらと思います。

私自身、アイドル好きの人間として(48、坂道系グループに関しては「つらくて見られない」という理由でほぼノーチェックなのですが)こういう事態に対し、何もせずにいる無責任さにいつまでもとどまっていられない、というような気持ちがあります。

アイドルが酷い目に遭っている状況が垣間見えるたびに、それを見過ごしながら彼女たちのパフォーマンスを楽しんでいる自分は何なんだろう、という思いが湧き上がります。

私がアイドルを好きになった理由は、1人で活躍しているスターに比べて実力やスター性では劣ると言われてしまう人たちが、グループで活動することで、ソロのスター以上の魅力を発揮することがあるという点で、面白さを感じたからです。

かつて「アイドル戦国時代」と呼ばれた時期には、不特定多数のアイドルのイベントをチェックし、「観たことのないグループはとりあえず観に行く」というくらいアイドル漬けでした。
今はもう、その頃活躍していたグループも多く解散してしまい、ほとんどアイドルのイベントに行くことはなくなりました。

しかし今も、テレビにモーニング娘。が出れば録画チェックするし、Perfumeはアイドルと呼ばれていた頃から今に至るまでファンだし、元アイドルのメンバーたちが活動するBILLIE IDLE®というグループのライブにも行っています。
やっぱり歌って踊る女性グループが好きという根本は変わらないみたいです。

しかしアイドルは、「女性は主体性を持たない見られる用の存在であるべき」とする「見られる用文化」と、常に隣り合わせの存在です。

アイドルは「消費されている」とよく言われます。その容姿や若さ、ふるまい、頑張っている健気な姿、競争社会に翻弄される儚い姿を。
一方的に消費されるということは、「見られる用として扱われる」ということです。

彼女たち自身は、さまざまな動機でアイドルを目指したことでしょう。
歌が好きだから、ダンスが好きだから、女優になりたいから、アーティストになりたいから、憧れのアイドルがいるから、サブカルチャーに興味があるから、何かに挑戦したかったから…
どんな動機にしても、どこかの瞬間には「自分自身の主体的なチャレンジ」と思ってアイドルに挑戦したんじゃないかと思うのです。
一方的に見られるだけの存在、消費されるだけの客体になるつもりでアイドルになる人の方が、少ないのではないかと思います。
むしろアイドルになろうとする人は、勇気を持って主体的に動ける人の方が多いのではないでしょうか。

しかし、彼女たちの主体性と、大衆からのアイドルの「見られ方」にはギャップがある。
夢のためにチャレンジする行動力のある女性たちが、世間からは、まるで意志を持たず周りの大人たちの命令通り動く人形のように思われている。

問題は、世間一般の大衆だけでなく、グループの運営に関わる人間や、コアなファンですらも、アイドルを一方的に消費していい「見られる」ために作られた人形のように見てしまうことが、多々あることです。

特に運営者がアイドルを人間として尊重することは、逆に稀なことにすら思えます。企業で考えても、労働者を人間として尊重する雇用者の方が稀なのだから、それは当然の結果かもしれません。
しかしアイドルの場合は、ほかの俳優やタレントに比べてもモノ扱いが顕著なように見えます。
そこには、彼女たちが若い女性であること、そもそも女性が社会の中で「見られる用」とされやすいことが関係しているのではないでしょうか。

さらにファンは、運営者がアイドルをモノのように使って作り上げるリアリティーショーのような演出(プロデュース)に乗せられがちです。

アイドルを愛するがゆえに運営のやり方に異を唱えるファンも、もちろんたくさんいます。しかし、ファンの異議によってプロデュース方針が変わることは滅多にない(多数のファンが署名運動までしてもメンバーが年齢を理由に脱退させられる決定を覆せなかったという経験があります)。
彼女たちを応援しようとすると、結局運営のやり方に加担することになってしまいます。

さらに、アイドル自身も「売れるため」「夢を叶えるため」に、多くは運営のやり方に従っている。納得できないと思っているファンも、彼女たちが今やっていることをとにかく応援するしかない…という結論に至ってしまいます。
ファンもアイドル自身も、「見られる用文化」の中で生きてきて、女性が人として主体性を尊重されないことに、慣れきってしまっているのかもしれません。

事実、もっと積極的に、運営がアイドルたちをモノ化して見せることを楽しむファンもいます。彼女たちの立場が弱く理不尽な運営に翻弄される姿を、ショーとして楽しむファンは残念ながら存在します。

今回の事件では山口さんが理不尽な目に遭っていることがあまりにも明らかなので、山口さんに味方し運営を責める声の方が多く見られます。
しかし他の状況では、運営の方針とアイドルの意志が対立した時、「アイドルを」好きで応援しているはずのファンが、「運営に逆らうなんて」「ルール違反は許せない」「他のメンバーは我慢してるのに」といった態度に転じることは少なくありません。

女性は「見られる用」の存在である、そしてアイドルは「見られる用」として最たる象徴である、という社会の認識。それは、アイドルに加害した多くの犯人のメンタリティの一因ともなっているように思えます。
もともと残酷ショーの消費物だった彼女たちに、何をしてもいいと勘違いする人間は現れるでしょう。

アイドルファンは、どうすればいいのでしょうか。アイドルを好きでいることは、彼女たちを消費することになるからやめるべきなのでしょうか。

アイドルは「見られる用」にならなくていい

私はもっと早くに、はっきりと主張すべきだったのかもしれません。

私は、「魅力的な人間」の基準は多種多様で一辺倒ではないことを感じられる、アイドルという文化が好きです。

アイドルとして個性を発揮し、可能性を伸ばす女性たちが好きです。

グループで、仲間とともにステージに立つことで1人では叶えられなかった夢を実現する女性たちの姿が好きです。

私は、権力を持つ人間の命令に逆らえず、自分を押し殺すアイドルの姿を見たくありません。

若い女性の立場の弱さを、「健気さ」や「女の子らしさ」という言葉に置き換え、さもそれが魅力であるかのように見せることに反対します。

規律の厳しい学校の規則に従っているようなアイドルたちの姿を美徳として賞賛することに、嫌悪を覚えます。

どんなに酷い待遇でも、無茶をさせられても、それどころか被害に遭った状況でも、涙を拭いて笑って舞台に立つアイドルたちの姿を見ても、それを「美しい」と賞賛したりしません。それは単に抗うことを封じられた姿です。

意図的に残酷な困難を用意し、それを乗り越える姿をショー化することを嫌悪します。

私は、プロに徹するアイドルも、一人ひとりは人間であり、その人間性が垣間見えることもあると理解しています。そしてファンも人間なので、その人間性に魅力を感じることも、感じなくなることもあります。
しかし、故意に彼女たちの公に見せているプロの顔をはぎ取って、人間性を露見させようとする演出は求めていません。そのために彼女たちを罠にはめるようなことには断固ノーを唱えます。

上記は一人のアイドルファンとしての主張です。
世間で、またはアイドルグループの運営者によって、もしくはアイドル自身によって、「ファンが見たいもの」と定義づけられている多くのことは、一ファンである私が見たいものではないというだけのことです。

アイドルになることは、=モノ化され、「見られる用」化され、消費されることを、甘んじて受けなければならないということではないと思います。
彼女たちのエンターテインメントへの情熱と、人間としての尊厳は両立するべきです。
アイドルになったらモノのように消費されることは免れないという通説に異論を唱えたいと思います。
観客を楽しませること、「見せる」ことは、主体性のない「見られる用」の人間になることではありません。

アイドルは「見られる用」にならなくていい。
そう考えるアイドルファンも、本当はたくさんいるんじゃないでしょうか?
それならば、愛するアイドルのために、それを言うべきではないでしょうか?

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