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「見られる用文化」のはざまで⑧ーなぜ女同士はいがみ合っているとされるのか

「女同士はドロドロしている」
本当に生きていてめちゃくちゃ言われます、この言葉。私自身はそういう経験がほとんどないので、一体なんのことを言われているのかわからなくて、苦笑いするしかできない言葉です。

ロフトのバレンタイン広告が悪い意味で話題になっていますね。

「女の子って楽しい!」というコピーを銘打ちながら、足を引っ張り合い、マウントを取り合う女性同士を描写する広告。
批判的な声が多く、2月4日にはロフトが謝罪して広告を取り下げる事態となりました。

また「ご不快」テンプレの謝罪なんですね…。広告出す上でひとを不快にさせる可能性くらいちゃんと引き受けましょうよ、不快な気持ちになった人のせいにしないで、表現そのもののまずさをちゃんと検証して責任取りましょうよ…と思うけど。

それはさておき、今回はなぜ女同士はいがみ合っているとされるのかを、「見られる用文化」の観点から考えたいと思いました。

「ドロドロした女の子同士」の体験学習

以前にも書きましたが、私は少女時代を「見られる用文化」にハマれない、のんきなはみ出し者たちとばかり過ごしてきて、あまりドロドロした女同士の関係というものを経験したことがありません。

でも一度だけ、絵に描いたような「ドロドロした女の子同士」の中に放り込まれたことがありました。
あれは中学生の頃、自治体主催の泊りがけのボランティア体験学習に参加した時のことです。

希望者が学校を通じて自由に申し込める校外学習のようなもので、担任の先生がホームルームでお知らせを出し、私はごく単純に内容に興味を持って、一人で先生に参加希望を伝えました。
そう、「見られる用文化」のはみ出し者であった私には、「友達と誘い合って行く」という発想が、まずもってなかったのです。

同じお知らせを聞いたクラスメイトの中で、ほかに3人の女子が参加することがわかりました。私以外は皆同じ「仲良しグループ」で、それも中学生ながらいち早く「男の子にモテる」ことを重視するようになった先頭グループのような人たち。
普段「見られる用文化」のはみ出し者たちとばかりつるんでいた私が、突然「見られる用文化」の最先端の女子たちとともに数日間行動することになったのです。

とはいえ、私のいた中学は成績偏重の傾向も強かったため、わりに成績が良かった私は、どの層からもあまり無碍にされない立ち位置を得ていました。
体験学習中は、私も適当に彼女たちに合わせ、彼女たちも私に直接嫌なことを言ったりしたりすることはありませんでした。

しかし、彼女たちの世界は、私には理解できない別世界でした。

一人の子のお父さんが宿泊施設まで私たちをまとめて車で送ってくれると申し出てくれて、みんなで一台の車で向かいました。その途中、車を出してくれた家の子が、ティッシュペーパーのごみを窓から投げ捨てました。
雨が降っていたのでティッシュペーパーは落ちていかずに車の窓に張り付いて、その様子がおかしいと、3人は大笑いしていました。
私は、車の窓からごみを捨てたことにあまりにびっくりして、笑えませんでした。
彼女たちが大笑いして騒いでいたので、運転していた父親も、気付かなかったわけはないでしょう。しかし、父親は何も言わず、ひたすら黙々と運転していました。

宿泊施設では、彼女たちは大人のスタッフの決めた部屋割りをいやだと言って、小学生の子たちに部屋を替わるように迫り、他校からあと2人ほど来ていた中学生女子たちを含め、こっそり中学生だけの部屋を作ってしまいました。
(その体験学習は行ってみたら圧倒的に小学生が多数で、中学生は数人でした)

お風呂も、彼女たちは大浴場に小学生の子たちと一緒に入りたくないと言い、スタッフに「私たちみんな生理です」と嘘をついて、中学生女子全員が時間外に大浴場を使う許可をもぎ取りました。

こんな数々の不正に、スタッフの大人たちが気づかないわけはなかったと思います。彼女たちも、バレバレの嘘でもごねれば通ると思ってやっていたかもしれません。
相手が誰であれ初対面から「嘘をつく人間だ、信用できない人だ」と思われるのは、私にとっては多少なりともストレスのかかることですが、彼女たちはそれよりも、自分の要求を通すことを優先していました。

やがて3人のうちの一人が、他校の男子がカッコいいと言い出し、アプローチをし始めました。
彼女が男の子と仲良くなると、途端にグループから仲間はずれにされました。
彼女が男の子に話しかけにいくと、ほかの中学生女子だけでまとまって彼女の悪口を言い、彼女が来てもわかりやすく冷たい態度を取ります。

私には「男の子にベタベタしたら即アウト」みたいな彼女たちの法則も意味がわからなかったし、さらに、そういう不問率があることはグループ内にいる子ならわかりそうなものなのに、彼女がなぜ堂々と男の子にアプローチしにいったのかも謎でした。
しかし何週間か後には、何ともなしに仲間はずれは解消されていたようでした。それは彼女たちなりの、なんらかの儀式だったのかもしれません。

未だにこんなに事細かに覚えているのは、それだけ私にとってこの出来事が衝撃的だったということでしょう。
彼女たちの行動原理は私にはさっぱり理解できず、でも反対もできず、黙って従うだけでした。
たしか連続講座のような形で2回目があったのですが、その時は出発直前に急に耳が痛くなって、休んだか、途中参加になった記憶があります。

「女の子は責任を期待されない」という諦め

こういうエピソードを披露すると、「やっぱり女の子は身勝手で本当の友情なんてない」とか言われてしまうかもしれません。私の経験からいえばこういう女性たちに出会ったことの方が少ないのですが、それを個人差と言いたいわけでもありません。

この連載の第一回で引用した、Google画像検索「女の子」の検索結果のスクリーンショットを、もう一度引用したいと思います。

「見られる用文化」のはざまで(第一回)

私が中学生時代に出会った、あの驚くべきわがまま女子たちは、自分自身を、この画像のようなものだと思っていたんじゃないか…と思うのです。

自分自身の価値を、「見られる用」であることや男の子にモテることしかないと思っている人は、まっとうな「責任感」を持つことはないでしょう。
自分が社会に対してなんらかの責任を持ち得る存在だと思っていない。自分のことを責任を果たせる能力があると信じていない。
そんな諦めを抱いて生きている。

車の窓からゴミを捨てた娘を、叱りもせず、無視するかのように黙々と運転していた父親の姿を思い出します。
彼女たちは、信頼のおける行動を、はなから期待されずに育ってきたのかもしれません。 

「女の醜さ」という、世の中である程度定型と思われているものが表現される時、そこには同時に女たちの「責任能力のなさ」が表されるのではないでしょうか。

自分のしたことにまっとうに責任を取ることをしない者。信頼のおける行動を取らない者。社会に対して責任を取る能力のない者。
そういう者として「女」を見る視点から、「女は自己中心的で常にいがみ合い嘘をつきあう」というイメージが生まれてくるのではないかと思うのです。

そして、そういう「女」評価を内面化した女性たちは、実際に責任を取らない身勝手な人になっていくのかもしれません。

ロフトの広告が多くの女性に嫌われたのは、単に「女の子同士がいがみ合っている」という表現だけでなく、その背景に、女性に対する「責任能力のなさ」「信頼のおけなさ」という評価を感じ取ったからではないでしょうか。

彼女たちの世界

ところで、3人の中で一人だけ、私にとって少し気の合う人がいました。たまたま席が近くなったら話す程度の仲でしたが、グループを離れて一個人として話す彼女は、さまざまな話題で会話が弾み、当意即妙でユーモアがある人でした。
ドライで現実主義だけれど、どこか筋が通ったような人で、今頃は、けっこう面白い大人になっているかもしれないな、などと思います。

彼女は私と話す時、他の2人の陰口を言い、軽蔑していました。私はなぜ彼女が2人と一緒にいるのか不思議に思っていました。
でも、私自身だって一緒にいる友達を明確な理由で選んでいるわけではなく、なんとなくいつのまにか波長が合って仲良くなるようなことが多いし、そういうものなのだろう、くらいに思っていました。

彼女は、周りの子よりも早くに大人の視点を持ちすぎたせいで、「女」に生まれた自分自身の立ち位置を鋭く察知し、必要以上に打算的になってしまっていたのかもしれません。

そんなことを考えるうちに、ふと私は、あの3人の間にも、やっぱり彼女たちにしかわからない、通じ合うものがあったのではないか…と思えてきました。

「見られる用文化」がこの世で権力をふるっていることを、周りの女の子たちよりも早く知り、その難解な現実に適応しようとしていた。
大人の求める「女」像をなぞるように、男性へのすり寄りや、嘘をつくことや、陥れ合いをシミュレーションしていた。
そんな彼女たちの間でしかわかり合えない絆が、もしかしたらあったのかもしれない。たとえそれが、心地良いものではなかったとしても。

そう思うと、私はなんだかとても、切ない気持ちになります。

(以上全文無料)

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