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金に呪われてる?

将来の不安から逃れるためにお金を稼ぐ。

いい生活をするために、お金を稼ぐ。

お金を稼げる人とじゃないと、自分も苦労してしまう。

そういう風潮があるから少しでも給料の高いところに就職しようとしたり、今よりも稼げるところに転職したりする。

副業とかで、時間を削って、休める日を削ってでもお金を稼ぐ。
でも少しでも楽したい・・・
という時に、『1日5分!たったこれだけでこんなに稼げる!』みたいな広告に目が行き、登録したりする。

結果としてそんなものは存在せず、搾取されてしまって終わり。

動画編集の仕事は大体相場がこのくらいですとか、飲食店はこのくらいとか、営業の仕事はこのくらいとか、値段はほとんど似たようなところで停滞している感覚。

そしてせいぜい稼げると言ってもたがが知れるようになってしまった。

激務なのに、このくらいの価格。
楽な仕事だけど、普通より給料高め。とか。


そもそも、何のために仕事しているんだろう?何のためになりたくて、何をしようとしているのか?お金が解決してくれるのか?

本来の人としての優しさとか、そういうものが激務の中で消え去るのであれば、それは一体何のための何なのか。

自分はこのくらい稼いでいるから偉いんだとか、俺は社長だぞ!みたいな感じで、ふんぞり返って偉ぶっている人たちは本当に偉いのか?

そういう価値観が人を狂わせているというのは多分事実。

本来の目的とか、どうして自分がそこにいることができるのかという本質的な部分には蓋をして、実際の肩書きに安心感を得て、それでもどこかで誰もがいなくなるかもしれないという漠然とした不安を抱えつつも、それでもなお偉そうにしている、いや、偉そうにしていないと保てないのかもしれない。

そうでもしないと保てないというのは、果たして本質なのだろうか?

お金がどうとか、稼げる人じゃないと自分の人生は任せられない。とかいう感情は、お金と他人に依存している。

もしかしたらこれは、いつの日かの誰かが、そういう価値観の方が自分たちが得して楽できると考えて、作り上げた汚れた価値観なのか。


それでもやはり、生きる条件の一つとしてお金は切り離せない。

そこに対するそれぞれの考えがあるのもまた事実。

でも、それに呪われて、いつまで経ってもお金というものの気持ち悪さから抜け出せないのであれば、そこばかりを考えるのはきっと良くない。

綺麗事になるかもしれないけど、得意なこととか、好きなことをやっていた結果として、そのものに価値を見出してもらって、お金をもらうのが自然な感じがする。

そのお金というものはそういう活動をするための ”何でも引換券” でしかないということ。

住むために ”何でも引換券” を渡して、家を借りる。
執筆活動をするために ”何でも引換券” を渡して、いろんな体験をする。

ただ、自分の欲を満たすためとか、自分の将来の安心を得るためだけにその引換券を持っていても意味がない。

それ自体には何の価値もなくて、何と引き換えるかに価値がある。

お金自体にばかり目が行き、本来見るべきものが見えなくなるなら、それはお金に呪われている。

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