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回るということ

よく記事の中で、社会の歯車になりたくないとか、社会の歯車から離脱しようとか書いたりしているけど、それじゃ、歯車とは一体なんなのか。

そこまでしっかりと表現したことがないから、まだ自分の中でもそれが一体どういうことなのかというのがまとまっていない状態ではあった。

歯車とか言って、それはすべてどこかにバチっとハマってぐるぐる回っているかのように話していたけど、実はその辺に乱雑に置かれた歯車というものもあるのかもということに気づいた。

それは一つでも欠けてしまったら動くことのできないもの。全てが役割を持ち、持ちつ持たれつで共に回っている状態。


でも実はこの世の中では、『君の代わりはいくらでもいるんだ』という言葉が人を苦しめていることからも想像できると思うけど、代わりがあるものになっているということ。

どこかにストックがある。
それは物体としての歯車ではなくて、人間として。

それが壊れたら、はい次の歯車を使用しましょう。ということ。

そもそも歯車自体が良くないとかそういうことじゃなくて、今の状態での使い捨てに似た歯車の使用方法に問題があるんだということ。

歯車側、つまり社会の一部として立派に生きている人は、そこをどうこうするということを考えはしない。

共産主義的な仕組みも結局は歯車のような構造になっていくんだと思う。

それは何か一つが欠けてしまったら、周りも止まってしまうような強固な状態か。

どんなことも回っている。

その周り方の構造みたいなものによって、質がうんと良くなる。

回し方。

回る事は前提として、どのようにそこにハマっていくのかということ。

サラリーマン的な構造が向いている人はそこで回るし、芸術の活動の中で回る人もいる。カフェのスタッフ、病院の看護師、学者、水道工事の人。

それはさまざまな形があって、そこにバッチリとハマるかどうかはハマってみないとわからない。

どこが自分にぴったりとハマるのかというのは、やはりしっかりと考えていかないと見えてこないものだとも思う。

ここ数ヶ月は自分の人生の中でもここまではなかったと思えるくらい、人生について考えた時間だった。

過去の気持ち悪くて、嫌な部分を掘り起こし、その時の感情をもう一度探ってみたり。

その中で、自分の欲とか、自分自身を作り出した核の部分というものを知る必要があった。

それは自分がどこの歯車になるかということを知るためにとても重要な作業。

ただ回るだけじゃない。
しっかりと回らないといけない。

どこかに雑に置かれた適当な部品になってはいけない。

錆びてしまう。
動いていないと、錆びついてボロボロになっていく。

回っている中でたまに油を差してくれるから、綺麗に回ることができる。

そんな場所を自分を知ることで見つけ出すしかない。

もしかしたら抜け出せないほどにどうしようもなく、気持ちの悪い闇があるかもしれないけど、それでも触る必要がある。

どうでもいいくだらないものになるよりは、どこかでこ綺麗に回っていたほうが立派な気がしてならない。

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