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ドイツ語を学ぶ日々|『バカロレアの哲学』裏メニュー|ウィーンまかない編

今回の哲学問題「言語は道具にすぎないか?」

『バカロレアの哲学』の裏メニュー「ウィーンまかない編」。本連載では、著者・坂本尚志さんのウィーンでの生活と、実際に出題されたバカロレアの哲学問題を引き合わせて記録していきます。


 新しい言語を学ぶのは楽しいものですが、時間と労力が必要です。若いころならいざしらず、年を重ねると記憶力も落ちていき、単語を覚えるのも一苦労です。

 とはいえ、せっかくウィーンで暮らすのだからドイツ語を学ばないのはもったいないと思いました。子どもたちもドイツ語しかない環境で一日の大半を過ごすのに、親が何もしないわけにはいきません。

 というわけで渡航前から少しずつドイツ語の勉強を始めていました。ウィーンに来てからスマートフォンのアプリも使い始め、徐々にドイツ語に慣れてきましたが、やはり体系的に勉強することが大事です。できるだけ早くドイツ語教室に入ろうと思っていました。

ドイツ語教室始まる!

 しかし、2021年秋にはオーストリアが4回目のロックダウンに入り、その後も感染拡大防止のための措置は続いていました。なかなかタイミングがつかめませんでしたが、3月にようやくウィーン大学言語センターの対面授業のクラスに申し込みました。
 
 オンラインでのプレイスメントテストと面接を経て入ったクラスは下から2番目でした。独学のおかげか、まったくの初心者よりは少し上でした。

 授業は週2回、午前9時から11時30分までです。教室はかつてウィーン大学物理学研究所が入っていた建物です。シュレーディンガーやボルツマンといった錚々たる面々が研究していた場所でドイツ語を学ぶというのは面白い経験です。

元ウィーン大学物理学研究所の4階が私たちの教室でした

 受講生は十数人でした。最初の数回はレベルが合わずクラスを変える人もいて、メンバーが固まったのは開始から1か月ほど経った頃でした。

 受講生の出身国は多彩で、エジプト、モンゴル、中国、アメリカ、ペルー、ロシア、スウェーデン、ウクライナ、ブラジル、サウジアラビアなど世界中にまたがっていました。オーストリア人と結婚して現地に暮らしている人や、仕事や留学で一時的に滞在している人がおり、年齢も20代から50代までさまざまでした。
 
 毎回の授業は教科書と問題集が一緒になったテキストを使って、文法事項の説明と練習問題、聞き取り問題、ペアでの会話やロールプレイ、などを次々にこなす、密度の高いものでした。

 先生は基本的にドイツ語で話していましたが、込み入った内容でついていけない受講生がいると英語に切り替え、それでもわかりにくいときには、スペイン語、アラビア語、ロシア語なども使って説明していました。日本語も少し話すことができました。同じ語学教師としてその多才さには驚きましたし、教え方などとても参考になりました。

教室の様子。15人ほどで満席になります

楽しい四十の手習い

 ドイツ語を学んでよかったことは、フランス語と英語の知識が非常に役立つことでした。たとえばドイツ語の過去形の作り方は「haben/sein(英語のhave/be)+過去分詞」という形です。これはフランス語の複合過去形とまったく同じだったので理解しやすかったです。複数の言語を学ぶと、その違いだけでなく共通点も知ることができることを実感しました。

 授業中や休憩時間にクラスメートと話すのも楽しい時間でした。ウィーンでの子育ての話や、仕事の話、お互いの出身地の話など、話題は尽きませんでした。仲のいいクラスメートとは授業後に昼食を食べに行ったりしました。

 毎回の授業ではたくさんの宿題が出て、教科書の予習復習だけでなくオンラインでの練習問題を解き、作文を書かねばなりませんでした。身の回りのドイツ語が少しずつわかるようになったのは、こうした集中的な練習のおかげでしょう。

 40代になったら新しい習い事を始めるといい、と聞いたことがあります。私にとってはドイツ語が期せずしてそうなりました。自分が知らないこと、できないことを学ぶというのは、えてして無根拠な万能感にひたりがちな中年男性にとっては等身大の自分を認識する絶好の機会なのかもしれません。

 ドイツ語教室は10週間続き、6月初めに試験があって終わりました。試験では聞き取り、文法、作文、会話の4科目があり、最初の3科目はペーパーテスト、会話は2人一組で先生と話す面接試験でした。一週間後に合格の結果を受け取り、授業は終わりました。

 できれば7月以降も受講したかったのですが、夏のコースは週5日のものしかなく、とても気力と体力が持たない、ということで見送りました。日本でもドイツ語勉強を続けることになりそうです。

教科書とノート。久々の生徒としての授業でした

言語は道具にすぎないか?

 ドイツ語を学んでよかったことは、生活のさまざまな場面で、自分の意志を伝えたり、相手の意図を理解できるようになったことでした。もちろん初歩的な内容しか理解できませんが、コミュニケーションがより円滑になったことは間違いありません。

 私たちが外国語を学ぶ意味の一つは、こうしたコミュニケーションの手段を得るためでしょう。同じく自分の母語も、他者とのコミュニケーションの手段として機能しています。

 世界のさまざまな言語はそれぞれのやり方で、世界を事物や変化の様相に切り分け、そこに名前を与えます。音声や文字であらわされる、そうした名前の体系が言語です。

 この体系を共有するひとたちの間では、互いの意図や感情を伝えることはより容易でしょう。この意味では、言語はコミュニケーションという目的を達するための手段となっています。あるいは道具と言い換えてもよいでしょう。その目的の多様さや複雑さには違いがありますが、言語もまた、ハンマーやナイフと同じように道具なのです。

 ところで、「言語は道具にすぎないのか」という問いに対しては、「言語は道具にすぎない」という肯定の答えがまず考えられます。それに対して否定の答えは、「言語は道具にすぎないわけではない」となります。

 ここからいくつかの問いが浮かび上がってきます。そもそも言語とはどのようなものなのでしょうか。言語が道具であるというとき、それはどのような言語のあり方を示しているのでしょうか。それは他の道具とは違う、特殊な道具なのでしょうか、それとも同じなのでしょうか。

 言語の役割は道具だけなのでしょうか。言い換えれば、言語は何かの目的を達するためだけに存在しているのでしょうか。それとも、言語には道具以外の使い方があるのでしょうか。道具以外の使い方があるとすれば、それはどのようなものなのでしょうか。言語の目的がコミュニケーションであるとするならば、それはコミュニケーションを目的としない言語の使い方なのでしょうか。コミュニケーションを目的としない言語は、それでも言語であると言えるのでしょうか。

 新たな言語を学ぶことは、新たな世界の切り取り方に出会うことでもあります。それは確かにコミュニケーションの手段ではありますが、同時に誰とも語らうことがなくても、自分の知識を更新し、それによって自分の存在自体も変えるものです。言語による変容は、決まった目的地へと私を導くものではありません。それが、道具ではない言語のひとつのあり方であるとも言えるでしょう。


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