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「人間に残された仕事は?」へっぽこ編集者、森博嗣先生に教わる【2】

森先生といえばAIだし(そうか?)

noteユーザーのみなさまごきげんよう。犬も歩けば棒にあたる。三歩歩けば叱られる。どうも編集Yです。今日は「あなた、スカートめくれてるわよ!」と駅で上品なおばさまに子どものような注意を受けました。

前回に続きお送りする問答第2回。テーマはAI が発達する中、人間に求められる能力について。これ、実は編集Y的には生意気にも「置きに行った」質問。だって森先生といえばAIだし(そうか?)、時代もAIだし(そうかもな)、ビジネス書としてAIは押さえとかなきゃいけないのでは、という忖度の結果、「仕事ができる人になるためには(貴女には足りない)論理的思考力が必要です」と浅はかさを喝破された第2回、お楽しみください。

『アンチ整理術』第6章「本書の編集者との問答」より(第2回)

人間に残された仕事は?

編集者Y(以下、「では、もう少し社会を見渡したテーマで……。この頃、よく聞くのは、『AIが、人間の仕事を奪う』というニュースです。それに対して、AIに代替されない仕事人にならなければ。という風潮が一部で叫ばれています。これについては、どうお考えになりますか?」

森博嗣(以下、森)「あまり真剣に考えたことはありません。まあ、奪われるでしょうね。そんなにさきの話ではありません。コンピュータが登場して、いろいろな職業の人たちが、仕事を奪われました。たとえば、写植(しゃしょく)とか和文タイプの仕事なんか、全滅しましたよね。バスには車掌さんがいなくなりました。そのうち運転士さんもいなくなるでしょう。もっと時代を遡(さかのぼ)れば、力仕事をしていた人夫さんが不要になりました。スコップで土を掘る作業は、人間から取り上げられたし、ものを肩に担いで運ぶ仕事もなくなりました。これらは産業革命に始まっているわけですが、つまり、石炭や石油を燃やしてエネルギィを得ることができたから起こったシフトです。エネルギィが枯渇(こかつ)しなければ、この流れはしばらく続きます。人間は平均的には働かなくても良い方向へ進んでいます。機械が働いてくれるから、生産は安定し、社会は豊かになります。ただ、職業に就いていない人が増えれば、機械が働いた分の報酬を、そちらへ回す社会的な仕組みが必要になりますから、これからは、そういった福祉のシステムが築かれるはずです。仕事が奪われるから大変だ、と焦(あせ)る必要は、そんなにありません。それなりに、仕事は残っているでしょうし、少ない仕事量で、そこそこの生活ができる世の中になっていくはずです」

「AIに仕事を奪われるのは、何百年もさきの話ではないでしょうか?」

「そんな未来ではないと思います。でも、まあ、もしかしたらそうかもしれません。ただ、今もう既に、AIやコンピュータに、人間はほとんど支配されていますよね。なにしろ、みんなスマホを見て歩いているじゃないですか。なにも考えず、スマホのいいなりになっている人ばかりです。誰が仕事をしているのでしょうか? ほとんどスマホが仕事をしていませんか?」

「たしかに、そうですね。AIやコンピュータが仕事を奪うというのは、別のところに問題があるのではないかという気がします。その別のところが、何なのかわからないのですが……」

「人間が、使いにくくなったことですか? この頃、働き方改革とか、ハラスメントは駄目だとか、いろいろ煩くなってきています。時間は短くし、賃金は上げないといけない。どうして人間を雇わなきゃいけないんだってなりますよね。僕が経営者だったら、誰も社員を雇いませんね。文句をいわれなくて済みますから。まあ、それは冗談として、人間に要求される能力が何か、ということ。すなわち人間の本質のようなものが、これから問題になると思います。人間にしかできないことは何か。あるいは、その個人にしかできない仕事は何か、ということです。それを持っている人は、安心して生きていけることでしょう。みんなと同じことしかできない人は、すべてAIに取って代わられるはずです」

論理的な思考力とは?

「私は、本が好きで、よく読みますし、ものごとを吸収できないタイプではないと思います。他人のいうことを聞かない、理解しないとか、そういうタイプではありません。でも、頭の中にいろんなことが入ってきても、それらが整理されていない、理路整然としていない気がします。理路整然とした思考力、論理的思考力というのでしょうか、それが、『仕事ができる人』に必要な能力の一つのようにも思うのですが、先生は、どう思われますか?」

「そう思いますよ。論理的な思考は、人を説得するためのツールですし、同時に、自分自身には、問題解決の手掛かりになることが多い。なんだかんだといって、社会は論理がまかり通っている、ということでしょう。ただし、多くの場合、それは言葉なんですね。言葉であるゆえに、現実よりもデジタルで、解像度が落ちていることは否(いな)めません。そこは常に自覚し、注意する必要があると思います。頭の中に入っているものが整理されていないのは、情報が単なる知識として取り込まれているだけの状態だからでしょう。言葉を覚えているだけ、それはたしかに知識なのですが、でも、そこから何が生まれるか、という部分で、まだ展開していない。知識を応用する機会が増えることで、そういったものが頭の中でそれぞれリンクします。関係を結ぶのです。そうなると、使える知識になり、つまりは教養になります。知識は、クイズに答えることくらいしかメリットがありませんが、教養は、その人物の力そのものですから、どんな場合にも有利な立場にたてるはずです。その教養を、『仕事ができる人』と観測するのだと想像します」

「そのリンクに、論理的な思考が必要なのですか?」

「そうです」

「論理的思考力は、どのようにすると身につきますか?」

「ピアノの場合と同じです。論理を出力することです。理屈を捏(こ)ねる、論述をする、相手に理屈を説明する、論破する、というような経験を積むことで、育(はぐく)まれるものです。欧米では、この能力が非常に重視されていて、学校で議論をさせる授業が行われていますね。日本人は、議論は自分の願望を通すためのものだと認識しているのですが、もっと技術的なものとして、捉える必要があるかもしれません。日本人が議論に弱いのは、論理を学校で事実上学ばないからでしょう」

(『アンチ整理術』第6章「本書の編集者との問答」より)

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