4月1日

寿司(すし)という苗字の同級生がいた。
小学3年生と4年生を同じクラスで過ごした。僕たちはまだ小さかったものだから、その苗字の異質さにさほど違和感を覚えることなく、無邪気に「スッシー」と呼んでいた。

スッシーは、ともかくよく笑う男の子だった。
よく笑うとは言っても、どこかこう聞こえが良い素敵な性質とかではなくて、ともかく、なんでもかんでも簡単に爆笑のスイッチが入る子だった。簡単に手を叩き、大袈裟にお腹を押さえてみせた。
力の入り過ぎた先生のチョークがポキッと折れた時、生徒たちからふふふと控えめなざわめきが起きたのを全て飲み込むように、ただ1人ぎゃははとけたたましく笑った。嘘みたいに嗚咽を漏らし、嘘みたいに椅子からずり落ちていった。笑い過ぎている。まだ言葉こそ知らなかったろうが、「興醒め」という概念を最初に僕たちに植え付けたのはスッシーだった。


スッシーは自分でもよく冗談を言った。
社会の授業で脱穀という単語が登場した時、何かに追われているかのように必死に、高々と手を挙げた。
先生が「はいスッシー」と言い切るかどうかのタイミングで
「『脱穀』って、『ダッシュしてコクる』の略ですかあ」
と叫んだ。
小学4年生の教室が大笑いするのには十分なユーモアだった。スッシー自身も誰よりも大きく、誰よりも尾を引いて笑い、周りをしっかり興醒めさせてから満足気に席についた。



スッシーとはよく2人で下校した。僕の小学校は帰り道のルートごとに「赤コース」「緑コース」「黄色コース」などと呼び名が決まっていて、その色の羽を学童帽子につけていた。恐らく低学年の集団下校に都合が良かったからだろうと思う。
僕とスッシーはクラスで唯一の黄緑コースだった。特段大の仲良しというわけでもなかったが、一緒に帰らない理由もなかった。一緒に帰らない理由が特になければ一緒に帰る、というのは、大人になるにつれて捨て去られる素敵な惰性だなと、人とあまり喋らない大人になってからしみじみ思う。


2人でいる時もスッシーはよくジョークを言い、自分のジョークによく笑った。僕は子どもながらにそのジョークをあまり面白いとは思っていなかったが、子どもながらに上手に呼応して笑って過ごしていた。
「そんな猫いないよ」とか「なんでお尻なんだよ」とか、そんな風に僕が適当に打った相槌にもスッシーはいやによく笑った。調子がいいやつだな、と思った。すごく嫌味な見方をしていた、と思う。


将来どんな仕事に就くか、という話になったことがあった。スッシーは「区役所」と言っていた。なんで区役所なのか、理由を尋ねてみても「なんかかっこいいじゃん」と要領を得ず、そもそも区役所の仕事がどんなものなのかスッシーも僕もよく分かっていなかった。
僕は当時の担任の先生が優しくてかっこよくて好きだったから、学校の先生になりたかった。
スッシーは僕の意見などはなから興味がないようで
「かっくんはお笑い芸人になったら良いじゃん」
と言った。
「かっくん(当時僕はそう呼ばれていた)はさ、うちのクラスで1番面白いじゃん。お笑い芸人になったらいいじゃん。」と、真っ直ぐそう言った。
意外だった。誰よりも積極的に前に出て、誰よりも大袈裟に笑っていたスッシーが、僕のことを1番面白いと言っていた。嘘くさく大袈裟に笑う子ではあったが、妙なおべっかを言うようなタイプではなかった、と思う。

不思議なもので、調子の良いもので、僕のスッシーへの見方はぐるりと変わった。スッシーがクラスに放つ冗談も途端にセンスがよく思えてきたし、僕のちょっとした相槌に笑ってくれるたびにいっそう嬉しくなった。良い相槌を打とうと思ったし、僕もなんか冗談を言おう、などと思うようになった。



僕に「お笑い芸人になったら良いじゃん」と言い放ったその翌月、スッシーは九州に転校してしまった。あまりに急な出来事だった。
スッシーがいなくなった朝、先生が何やら説明をしていた気がするけれどもよく分からなかった。お別れ会のようなものもなかったし、スッシーからの最後の言葉もなかった。

嘘くさい爆笑のなくなった授業は、以前よりちょっとだけスムーズに進むようになり、以前よりちょっとだけ退屈になった。今振り返ってそう思い込んでいるだけなのかもしれない。よく覚えていない。



スッシーの言葉は呪いのように僕を縛り付け、多少の寄り道がありながらも僕は芸人になった。
スッシーは、今でも僕を面白いと言ってくれるだろうか。大袈裟に、嘘くさいながらも目一杯笑ってくれるだろうか。

芸人として自慢のネタを披露し、爆笑に包まれる客席の中にふと、スッシーを探すことがある。いたとしてもすぐに分かるわけはない。が、周りを興醒めさせるほど尾を引くような爆笑に、まだ出会えてはいない。

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