【寛容と不寛容】「先生」と呼ばれるのは気持ちがいい
お久しぶりです。三角形です。
私は過去に2度、「先生」と呼ばれる側になったことがあります。①アルバイト先の塾講師 ②教授の付き添いの講演会です。
先生と呼ばれるのは気持ちがいいです。相手から敬われている感覚、少し変なことを言っても許される(と思ってしまう)ような空気感。もっと言うと、相手より上位の存在である感覚というか。私はこの感覚がすごく怖いな、と思っていました。
そんなことは忘れて、ふらっと見ていたyoutubeの意識高め動画が以下です。
私自身は「先生」と呼ばれたり、あるいは肩書で人を判断せずに、フラットな人間でありたいと思います(きれいごとですが)。一方で、肩書は信用につながりますし、年齢が上がるにつれ、「若さ」や「可能性」でカバーできない部分を肩書でカバーしなければならないのかなと思ったりしています。
権力をもつ(天狗になること、と動画では武田双雲氏が表現しています)ことは若さを失うこと、不寛容になることだそうです。
「先生」と呼ばれることに私は不寛容や違和感を感じ、そのため一種の快感を覚えたのだと思います。
ところで、私が尊敬する上司や先輩、教授たちは、この不寛容と寛容を行き来する能力が非常に高いのだと気が付きました。彼らは会話の中で不寛容と寛容を混ぜる能力が高いのかもしれません。
私はフラットな人間でありたいと先ほど述べましたが、言い換えると、「不寛容と寛容を行き来できる人間でありたい」とも言えます。これからも自分の中にある不寛容を認めながら歩いていければなと思います。
追記;「先生と呼ばれることに快感を覚えない人」(肩書や権力、不寛容を求めていない人、先生と呼ばれる以上にその分野や仕事に情熱を持っている人)になりたいものです。
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