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部屋の電気を消さない人から共同生活の面白さを感じた日

部屋を出ていくとき、電気を消さない人がいる。
僕は必ず電気を消す派。指摘したら思わぬ反応が返ってきた。

「使わないなら部屋の電気を消したほうがいいんじゃない?」
「え、なんで??」
「!??」

電気を使わないときは電気を消す。
これを当たり前だと思っている自分は、幾度となく視界に入る、空虚な明るい下段のドミトリーを見て唖然とした。

一週間ほど前からワーキングホリデーのため、日本の某地域のゲストハウスに滞在している。そして、同時期に参加するワーホリメンバーが何名かいるため、うち男性は同室のドミトリーになった。
基本的に共同生活には慣れている自分だが、こればかりはこれまでにない経験で驚いた。価値観の違いを感じた瞬間だった。

「電気がもったいない」と感じるようになったのはいつ頃からだろうか。
さほど裕福でない、世間一般程度の家庭で育った僕は、気付けばかなりの倹約家になっていた。
必要ないものは買わない。物は大切に使う。なぜならもったいないから。
この考え方を「電気」という目に見えないエネルギーに適用することは、電気代やその他の数値を鑑みればさほど難しいことではなかった。
通っていた公立小中高校でも、「節電」の2文字を徹底的に教え込まれた。
スイッチの横にはその2文字が常にあり、それを忘れると指摘されたものだ。
電気を発電するために必要なエネルギーの量や、そのエネルギーの多くが結果的に地球温暖化に「貢献」していることを知らない時分においても、そのくらい「節電」を意識していたのだ。

世間的に「節電」を一番意識していたのは東日本大震災の時だろうか。
東北地域だけではなく、「計画停電」の動きに代表されるように、日本全体として節電の動きが見られていた。
有名なライトアップも影を潜め、暗闇に溶け込んだ街並みを今でも覚えている。

このように「節電」を意識していた自分だからこそ、下段の住人のこの返答には我慢できない部分があった。そして、その価値観の違いを「学んだ」のだった。

考えてみれば大学でもそうした人がいた。
わざわざ誰もいない新たな教室に電気をつけて(しかも自分が使う一部分だけでなく教室全体をつける)作業をする人。自分がいなくなっても電気を消さずに帰る人。おそらく裕福な家庭で育ったのだろうという色眼鏡をかけ、そっと電気を消していた自分を思い出した。

電気を消さない理由には、一方で別の考え方もいくつかある。しかし、それは「今」納得できる考え方ではないと思う。
例えば防犯のため、外出時に使わない部屋も意図的に電気をつけたままにしておくというもの。電気を消していれば留守に思われるため、確かにつけておくと安心だ。
しかし、ゲストハウスのドミトリーから出る時点で貴重品は携帯、または貴重品ボックスに入れているだろうし、取ったところで信頼関係が崩壊することは明白なため長期滞在のワーホリメンバーが取るはずがない(と断定できるものではないが、そもそもこんな場所で人の物を取る人は電気をつけていようがつけていまいが取っていくだろう)。

とにかく、「ドミトリーの電気を」必要時以外でも消さないという選択肢は、個人的には考えられないものだった。それが2人もいるとは。

ひょっとすると、自分一人が消そうが消すまいが消費電力はあまり変わらないだろうとか、あるいは電気代も宿泊費用に含まれているからいいだろうとか、そうした考えを実は持っているのかもしれない。

自分の視野の狭さを実感したし、皮肉にも怒りや戸惑いという感情よりも「世の中いろんな人がいるなあ」という共同生活の面白さを一番感じた瞬間だった。


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