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理性的な救済という救済(ニーゴストーリー感想)

ワンダショに引き続き、ニーゴのストーリー全20話を読み終えた。ワンダショのストーリーが個人的な嗜好もありかなりクオリティの高いものだと感じていたので次はどうだ、と若干身構えて読み進めていたが、こちらも大変にクオリティの高いものだった。登場キャラクターたちの年代+α(高校生〜大学生くらい)の人たちにとっては、何処かには共感する話になっていたのではないだろうか。(そして、それ以上の年代の人も「ああ、あったよ、わかるよ」と過去を思ってしんみりしてしまう話になっている気がする。同時に所謂「中二」の頃を思い出して、叫びたくもなってしまうが。)

なお、次にストーリーを読み進めているのはレオニなのだが、こちらも悩み・苛立ちがとてもリアルで、プロセカのライターは等身大の気持ちを描くのが非常に上手いなと思う。

以下、ニーゴのストーリーに触れながら話をする。ネタバレ見たくない人はここで回れ右してほしい。



わんだほーい(ネタバレ防止スペース空けるためのわんだほい)



まず確かな感想として、このセカイのミクがめちゃくちゃかわいい!!!!!!!!!!!!!!
かわいい!!!!!!!!!!!!

はい。

ニーゴのストーリーを語る様々な視点(まふゆの感情、クリエイターの葛藤、瑞希の強さなど)があるだろうが、私は私が「ああ、読んでよかったな〜」と一番思った点を語ろうと思う。とても個人的な話になるので、まったく面白くないかもしれない。

私が語ろうと思うのは、ニーゴのストーリーが非常に「救済」に理性的な態度であった、という点だ。


神を用いない救済はエゴである

やや言い過ぎな見出しだが、どうかお許しいただきたい。

ニーゴのストーリーは「救済」が一つのテーマになっている。そもそもユニットのリーダー格である奏が、「誰かを救う曲を作らなければ」という強迫観念じみた考えを持っている。

そして終盤にかけてのまふゆと奏が真剣に語るシーンでは、幾度となく「救う」という動詞が出てくる。
普通、モバイル向けの音楽ゲーム、しかもその場にいるのは高校生だけという状況で、こんなに「救う」という単語が出てくるだろうか? ニーゴのストーリーは何度も書き直したと開発者インタビューで語っているが、本当に凄まじい展開である。

(個人的には、奏の「誰かを救う曲を作らなければ」という思いに対して、「それは呪いだ」とはっきり言っているところも凄まじいと思う。私は結構、誰かの言葉が「呪い」になっているような展開が好きなので、すんなりと「そうね、呪いね」という話になるが、繰り返しになるが高校生のキャラクターで構成されたゲームの話である)


まあ、誰かが誰かを救う、それ自体は物語の王道かもしれない。

王子様が囚われのお姫様を救う、というのは、マリオの基本的な展開なわけだし(突然のマリオ)。

しかしこのニーゴのストーリーですごいところは、感情で「救済」を押し通すのではなく、非常に「私はあなたを救済する」と自覚と覚悟を持って、理性的に「救済」を語っているところだ。

対等な人間が他の人間を神と感情の昂りを用いず「救済」しようとするとき、「あなたには私の気持ちがわからない」と言われてしまえば、話はそこで終了となってしまう。

私がいくら、まふゆに「あなたの気持ちがわかるよ!」(余談④参照)と感情的に叫んでも、「いやあんたのは推しが死んだっていうそれだけでしょ。私は自分の問題だから…」と否定するに違いない。普通であればそこで「そうだけど」と黙って終了だ。だって、他人の気持ちは完全に理解できないのは当たり前だ、なぜなら「私」は「あなた」でないから。個別な存在である以上、そこの差はしょうがない。だから、他を救おうとするとき、大抵は私やあなたより高次元の存在=神などを用いた視点・概念で語るか、理論を捨てて「わかるし救える!」と感情的に叫んで押し通す。

だが、奏はそこを超えて、一歩、踏み込んだ。

どうしてそこまで自分を救おうとするのか、というまふゆに対して、奏はこう答える。

それは——私の、ただのエゴだよ(18話より)

(18話のニーゴ面子の対話は本当にすごい)


そう、救済にはエゴが必要だ。他人の気持ちを「私」が完全に理解することはできない。それでもそばに寄り添おうとするならば、覚悟とエゴが必要なのだ。

誰かを救済することを感情の勢いなしでやろうとすると、エゴにぶち当たる。そのことを踏まえた上でさらに自覚的に「救済」へ進もうとするストーリーが、私は好きだ。理性を持って「救済」に触れるストーリーが私は好きだ。相手を「幸せ」にできないかもしれないが、救済すると覚悟するストーリーが私は好きだ。

例えば漫画「左ききのエレン」、ジェイコブスとエレンの対話。「オレはただ…幸せになりたいだけなんだ——」と嘆くジェイコブスに、エレンは「お前は幸せなんてならなくていい」と突き放すが、「別々の道に進んでも 二度と会う事がなくても 私は最後まで一緒に居てやる」と宣言する。

例えば(プロセカと同じく音楽ゲームの)Cytus2のJoeとSimon(Xenon)の対話。「俺は(許されないことをした)最低な人間だ」と後悔するJoeに、「お前は俺にだけ罪悪感を抱いていればいい。(中略)これからも、この(Joeのした)事を思い出してムカつくことがあったら、またお前を殴る。お前のせいで不幸になった人たちの代わりに」と言う。

(10/28追記:私のミスで文章の一部が消えていたため)
上記で「左ききのエレン」とCytusⅡを例にあげたのは、わざとである。ぜひニーゴの奏好きには「左ききのエレン」を読んでほしいという思いと、個人的に同じ音楽ゲームというカテゴリのなかでCytusⅡとプロセカの冷静さ、地に足をつけたストーリー展開が似ていると思ったからだ。
「左ききのエレン」の主人公の一人であるエレンは、売れない画家の父を超える才能をもつ天才肌の女の子で長髪のコミュ下手、自分のせいで父親を追い詰めたのではと思っているキャラクターだ。……そういうことだ。「左ききのエレン」は、奏側の救済ストーリーと言っていいかもしれない。音楽と芸術という違いはあれど、クリエイターの話でもあるので、そういう意味でもおすすめだ。
CytusⅡについては、感情でキャラクターたちを動かすのではなく、あくまでも冷静にキャラクターたちを動かしている、という印象がプロセカと似通っている。ただし、プロセカは人間を「善」と捉えており、CytusⅡは「愚か」と捉えている節があるが。この二種は結構比較したら面白そうな気がするが、まあ、いつか。

エゴだと自覚された救済=自己満足 ではない。
そこにあるのは一生をかけるという覚悟と、寄り添う気持ちだ。掬い上げて楽にすることが救済ではない。そばにいてやるという気持ちが救済なのだ。

ニーゴのストーリーは、その結論に至っていたので、個人的にはとても好みだった。

さらにニーゴのストーリーが「救済」に対して抜かりないのは、一対一では、同じ人間ではないのだから完全なる理解は不可能だが、奏・瑞希・絵名と三人にそれぞれ共感ポイント(理解の領域)を割り振ることで、総合的にまふゆを理解できるようにした点である。ここも、わりと救済のテクニカルポイント高いと思う。

余談①終盤の絵名がめちゃくちゃよかった

上記では、奏→まふゆ の救済をメインに語ったが、終盤の絵名→まふゆの感情もめちゃくちゃよかった。

なんであんたは、私の欲しいもの持っているくせに、消えたいとか、平気で言えるわけ?
(中略)
才能があるなら、才能がない人の分まで苦しんで、作りなさいよ!!(18話より)

このセリフを言わせる事ができるコンテンツ、激強では?
そうなんだよなあ、絵名からしたら、まふゆはなんでも持ってるんだよなあ……。ある意味でユーザーを代弁してくれているこのセリフが、私は好きだ。才能がない人と才能がある人の関係に対しても非常に細やかだ、プロセカは……。
(ちなみにこの辺のテーマも「左ききのエレン」で触れられているので、良ければ……読んでくれ……)


余談②プロセカの絶妙な「リアル」さ

ワンダショ13話の司の怒りもそうだが、プロセカのストーリーはなんだか「ここで?」というところでリアルだ。

例えばニーゴのストーリーであれば、まふゆの両親の絶妙なさじ加減。まふゆの両親は、おそらく世間一般でいう「毒親」にカテゴライズされるのだと思うが、両親の言葉はただ言葉の意味を追うだけでは、そうそう「毒」には見えない。まふゆの目を通してみることで、抑圧していると気づける(と私は思った)。
まふゆの感情・消えたいという気持ちを描くために、もっとわかりやすく過剰な抑圧(例えば、門限を守れなくて過剰に説教する親というシーンを入れるなど)をしてもよかったと思うのだが、それをしないところが絶妙にリアルだなと思った。
ゲームであるのだから、もっとダイナミックにストーリーを動かしても誰も怒らないだろうが、その「リアル」さも、プロセカ側のユーザーに対する真摯さというか、「あなたたちに寄り添う」という気持ちが感じられて私は好きだ。まあ過剰解釈かもしれないけれど。


余談③:天馬司は呪われているのか?

私はワンダショの天馬司にべた惚れしたオタクなので、ここでも天馬司のことを語ってしまうがお許しいただきたい。
奏と天馬司(フルネームで書きたくなる)の共通点として、ユニットのリーダーであることに加えて、「〜〜であるべき」という思いを強く持っていることがあると思うのだ。奏は「誰かを救う曲を作るべき」、司は「ショースターになるべき」。奏のそれは「呪い」だと言及されるわけだが、司のそれは呪いなのか。

私は否だと思う。

天馬司はあくまでも、自ら「スターになりたい」と思っているからだ。思い込みには違いないが、周りの環境から追い詰められて発生した思い込みでなく、自らの憧れに起因する思い込みなのだ。奏のように一本道しか見えなくなっているのではなく、他の道は見えるが、目の前にある一本道をめちゃくちゃ補強している、と言ったらよいか。
その精神は基本的に前向きでポジティブである。それはワンダショのメンバー全員に言えることで、彼らは根っこの思考がポジティブだと思う。
前にも語ったが、彼らはどこまでも正気なのだ。

(なお、あくまで上記は私が心と折り合いをつけるための解釈なので、呪われた天馬司を見るのは大大大好きです)


余談④:まふゆの気持ちがわかりすぎる

もう疲れたの……!
希望があるかも、まだ、見つかるかもって思うのが
だったら最初から見つからないって思えてた方が楽だった
(中略)
探しても探しても探しても!!!
見つからなくって……っ、また探して、違うって、絶望して………
——もうこれ以上……どうしようもないじゃない……っ(18話より)

私はこの、救われるという希望と絶望を繰り返すことに疲れたとまふゆが吐露するシーンでいたく共感した。至極個人的な話だが、今年の春、私が好きだったキャラが、実は830日前に死んでいたことがシナリオの中で明らかになり、私はひどく傷ついた。実を言えば830日前、「もしかしたら死んだかも?」という状況にそのキャラクターは陥っていたのだが、確定的な情報がなく、それから830日間、私は「まだ生きているかもしれない」「いや死んだかも」という気持ちの中でゆらゆらしていた。新しいイベントが来るたび、「もしかしたら彼が出るかもしれない」と期待し、幾度となく「出なかったわ」と絶望していた。(まあ、私が好きになったそのキャラクターは所謂モブキャラクターなので、出るわけがない……のだが。それでも、一縷の望みにすがりたくなってしまうのだ。)その間、私はずっと辛かった。死んだと分かってからの心の憔悴はひどく、こんなに辛いなら最初から死んだと明言してくれればよかったのに、と誰でもない誰かを恨んだ。挙句の果てに、こんなに辛いなら最初から好きにならなきゃよかったのに、なんで私はキャラクターを好きになった、というだけでこんなに傷つかなきゃいけないんだ……とただひたすらに虚しくて、疲れた。
たぶん、まふゆは全然、「そんなのと一緒じゃない」というだろうが、上記のまふゆのセリフを聞いている時、「ああ、私もこんな声出てたわ、心の中で」と思って、ひどく共感した。
希望があるのは基本的にいいことだと思うのだが、何度も希望を掴めずに結局絶望するのは、本当に心に悪い。


いつも以上に、個人的な感想を書き綴ることになってしまった。

いやはや、ワンダショで「正気」、ニーゴで「救済」と、個人的なホットカテゴリの話が続くとは思わなかった。プロセカ最高。残りのユニットのストーリーも楽しみにしている。

まずはワンダショイベントで生き残らなければならないけどな!!!!!

無理かもしれない。

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