雑文

ここ最近、「お前の自我など世界にとってはどうでも良いのだから、一人で不器用に壁打ちを繰り返して、潔く孤独に死ね!」という考えと、「でもせっかく考えたこと/書いたことだし、私は好きでこれを綴っている。好きなものをより多くの人に見てほしいという欲望はあってもいいだろう」という考えの間を行ったり来たりしている。

いつの間にか、私が青春を過ごした日々はあっという間に過去になって、今、青春を過ごしている若い人たちは考えも世界のあり方も、地続きであるがかなり異なったところで生きている。

インターネットを駆使してオタク生活を送ることの大きな利点(と言いたい)の一つに、さまざまな属性の人と知り合いになれることがある。これは年齢という属性にもいえることで、普通に生活していれば仲良くなることはそうそうないだろう年代の人と友達になったり、話し合ったりすることができる。
もちろん、いくら歳が離れていようが気の合う友達は作ることができるし、実際に作れていると断言できるのだが、なんというか、全体の考え方、総体として向かい合う場合は、そうはいかない。やはり、ジェネレーションギャップを感じてしまう。それがなんとなくやりづらいと感じることも増えてきた。いわゆる「オタク」として活発で、コミュニケーションを多々SNSで取り合うメイン層から、私はほんのちょっとだけ外れつつあるのだ。趣味趣向は人それぞれだからよいとしても、受け取り方、コミュニケーションの取り方、メインの文脈、そういうものがほんのちょっとずつ、わからなくなっている。受け止めきれなくなっている。
だから、一人で引きこもって、最低限のコミュニケーションだけとって生きればいいのではないか、と考えることも多くなってきた。変にもやもやして、いつかワーッと叫び出し、周りを戸惑わせ、気を遣わせるくらいなら、はじめから離脱していた方がいい。

それが懸命なことはよくわかっている。実際、私がインターネット上で仲良くしていた友人(と、呼ばせてもらう。向こうがそう思っていなかったとしても)のいくらかは、SNSから距離を置き、インターネットの片隅につくった家でのんびり過ごしている。

だが私は、ある程度の自己表現と自己主張を、インターネット、それもSNS上でやってきてしまった。私はおそらく、今オタクとして存在している若者たちよりも、インターネット上の承認に飢えている。ここなら私を見てくれるかもしれないと思いながら、スマホの画面を見ていることがある。肥大した自我! 結局今まで、何者にもなれなかったのだから、今更何かになれることもないだろう。わかっていても、なんとなく、諦めきれない。

みんな、どうしているのだろう。このまま歳をとっていけば、明らかに私はインターネットのカルチャーのメイン層ではなくなり、考えも古くなって、メイン層の若者たちとはコミュニケーションがとれなくなっていくだろう。いつ青春を過ごしたかによって得られるカルチャーへの肌感覚については、どうしようもない。変えることができない。
隠居し、口を閉じればいいのか。この身相応のコミュニケーションを身につけて、明るく楽しく生きればいいのか。
ああそうだ。忘れていた。ここまで書いていて、思い出した。私は基本的にオタクとして生きると同時に、さまざまなものに対する怒りや恨みを持っていた。それらを発散する場所は、ずっとインターネットだった(これはヘイトコメントをしたり、炎上させたりということではなく、怒りや恨みを自分のなかでこねくり回して、何かつくって、インターネット上に流していたということだ)。だから私はいまだにインターネットから離れられない。私の怒りや恨みから生まれたものが、どこかの誰かを楽しませることができたなら、エンタメになったなら、怒ったり恨んだりした甲斐があるというものだから。少しは、私の怒りや恨みが報われるといい、そんなふうに思ったのだ。たぶん。かっこつけただけかもしれない。

なんだこの文章。
前段落の最後の一文が正しい。これはかっこつけただけのテキストである。
結局、私は一人のオタクだ。ただの。

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