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【三国志の話】とても易しくて実は難しい?「都はどこか」問題

はじめに

 いきなりですが、「魏・呉・蜀それぞれの都はどこか?」という出題があったら、あなたならどう答えますか?

 これは、三国志に関するクイズとしては、とても易しいものだと思います。

 思うだけでなくて実際にも易しいのですが、しかし知識があればあるほど即答できないように思うので、考察してみました。


 蜀については十中八九、いや、100人中97、8人は「成都せいと」と答えるのではないでしょうか。

 もちろん、正解です。

 蜀の先主劉備りゅうびは、221年に成都を都として皇帝となっていて、263年の滅亡まで変わっていません。

三国志学会第十七回大会(2022)の配布資料より

 しかし、このシンプルすぎる答えに不安を感じて、逆にひねってしまった人は、「永安えいあん」と答えるかもしれません。

 劉備は皇帝となった翌222年に、大軍を率いて呉に侵攻しますが、敗れて国境付近の白帝城に逃げ帰ります。

 劉備はこの白帝城のある魚腹ぎょふく県を永安と改称して、223年に病没するまでとどまりました。

 (呉に敗れた劉備は、)かくて船を棄て、陸路によって魚復に帰り、魚復県の名を改めて永安とした。
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 孫権は先主が白帝にとどまっていると聞き、ひじょうに恐れ、使者を派遣して和睦を請うた。

『蜀書』先主伝

 余談ですが、『三国志演義』では、諸葛孔明が魚腹にあらかじめ「石兵八陣」という罠をしかけておいて呉の名将陸遜りくそんの追撃を防いだ、という話になります。
 話題のドラマ「パリピ孔明」の第一話を見て知ったという方も多いでしょう。

 さて、「首都イコール国家元首がいる場所」と定義すれば、この時期は永安に都があったと解釈することも可能だろうか?

 残念ながら、先主伝には「都を遷した」とは書かれていません。
 一時的に皇帝が不在であっても、実際には成都にいる皇太子劉禅りゅうぜんが皇帝代理だっただろうし、実務は丞相諸葛亮しょかつりょうがこなしていたでしょう。

 やはり、「蜀の都はどこか?」という問題には、「成都」が正解だと考えるべきです。

 呉の場合は、やや複雑です。

 こちらもほとんどの人は「建業けんぎょう」と答えるでしょうし、もちろんそれが正解です。現在の南京ですね。

 孫権は212年に石頭城を築いて揚州呉郡呉県から居城を移し、この石頭城のある揚州丹楊郡秣陵ばつりょう県を「建業」と改めました。

 そして、229年に皇帝を名乗るときに建業を都にしていますから、間違いなく正解です。
 ちなみに同地が「建康」と呼ばれるのは東晋時代の313年以降なので、「建康」では不正解。

三国志学会第十七回大会(2022)の配布資料より

 しかし、もう一つの候補「武昌ぶしょう」も、間違っているとは言い難いのです。

二度の遷都

 孫権は221年に荊州江夏郡がく県を「武昌」に改めて、229年に建業に移るまで足掛け9年も滞在しました。

 また、265年から266年にかけて、四代皇帝孫晧そんこうが武昌に都を遷しています。

 孫権のとき(221年)は蜀との戦いに、孫晧のとき(265年)は蜀を降した晋との戦いに備えるという、軍事的な理由です。

 しかし、「劉備が白帝城に逃げ帰ってそのまま留まった」ケースとは明らかに違い、どちらも意図的な遷都である。

 孫権のときは「魏に封じられた呉王だったのだから、単なる地方自治体の治所の変更であった」という理屈になりますが、孫晧のときは皇帝として遷都をしている。

 もしも筆者が試験の責任者であれば、「武昌」は正解ではないにしろ、部分点の対象にはするだろうと思います。

 魏については、少し紛らわしい点はありますが、論理的に考えればシンプルです。

 216年、後漢の献帝から曹操が魏王に封じられますが、その居城はぎょうでした。
 曹操が銅雀台どうじゃくだいを建設した場所です。これは紛らわしい。

 しかし220年に曹丕が同じく献帝から皇帝の座を譲られて、そのときからずっと洛陽らくようが魏王朝の都になりました。

 曹操は皇帝になっていないから、後漢配下の地方自治体の治所だった鄴では不正解で、曹丕が皇帝になったときに都にした洛陽のみが正解でいいでしょう。

本題

 しかし、これで終わりではありません。

 「蜀の都は成都、呉の都は建業、魏の都は洛陽ですが、では後漢の都はどこだったでしょうか?」

 というのが本題であり、これが最も難しい問題ということになる。

後漢

 後漢王朝最後の皇帝である献帝は、190年から196年まで長安ちょうあんを都にしました。
 その後は豫州潁川郡許県を許昌と改め、220年に退位するまでこの許昌を都にします。

 ただしこれらは、軍事的な庇護者である董卓とうたく曹操が問答無用で決めたことで、皇帝自らの意志で遷都したわけではありません。
 従って「長安」「許昌」は、部分点はもらえるでしょうが、正解ではありません。

 後漢建国当初から末期の190年までの都なので、魏と同じく「洛陽」が正解か・・・?

 実はこれも部分点にしかならないと、筆者は考えます。

正解

 後漢の初代皇帝光武帝は、「洛陽」の「洛」の字を改めています。

 漢王朝を火徳とする光武帝は洛のサンズイを嫌い、洛陽を雒陽と改めた(魚豢『魏略』)

https://ja.wikipedia.org/wiki/光武帝

 そして、曹丕が魏の皇帝になったときに、再び「洛陽」に戻ったのです。

 曹丕は献帝から禅譲を受け、土徳の王朝のため、火徳であった後漢の都の雒陽の名を洛陽に戻して都とし、魏の皇帝となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/魏_(三国)

ということで、後漢の都は「雒陽らくよう」が正解のはずです。

 筆者は、知識としてこのことはずっと頭にはありましたが、実際に「雒陽」の表記を見たことはありませんでした。
 専門家の著書や資料を見ても、ことごとく「洛陽」の表記ばかりです。
(理由をご存じの方がいたら教えて下さい!)

 いくら「雒」が環境依存文字とは言え、出版社や印刷会社は活字を持っているでしょう。
 前述の「鄴」も、賈詡かくの「詡」や公孫瓚こうそんさんの「瓚」も、同じく環境依存文字なのですから。

 しかし先日ついに、正しい表記で書かれた資料を見つけました!!

答え合わせ

 少し前の記事で、「KOBE三国志ギャラリー」を訪問したことを書きました。

 筆者はその物販コーナーで、東光書店発行の「三国志地図」を購入していたのです。

 この裏面は「後漢華北図」になっていて、「司隷河南尹」には「雒陽」の文字が。

「後漢華北図」の司隷校尉部

 これでようやく「雒陽」が正解であるとの確信を持ちました!!

 ちなみに、表面の「三国志地図」では「洛陽」です。

「三国志地図」の司州

まとめ

  • 後漢の都=雒陽

  • 曹魏の都=洛陽

  • 蜀漢の都=成都

  • 孫呉の都=建業

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