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【三国志の話】三国志最大の謎とは?

 一般的に三国志の謎というと、『正史』があまりに簡素であるために、『正史』が採用しなかった面白エピソードに注目されがちです。
 例えば、于禁うきんは実は女性だったのかとか、曹叡そうえいの父は本当は袁煕えんきだったのかとか。

 しかし、筆者が考える限りは、陳寿ちんじゅが正しいと判断できなくてスルーしたエピソードは、謎でも何でもありません。
 新しい資料や考古学的な新発見がない限り証明する手段がありませんので、単純に「陳寿が書いていないことは信じない」だけです。

 とはいえ、「陳寿が正史に堂々と書いていながら、その記述に問題があり、現代の研究者の間でも解釈に違いがあって、それぞれが著書で違うことを書いている」という、未解決の疑問はいろいろとあります。

 例えば、初平3(192)年の「界橋かいきょうの戦い」に参加した兵力。
 歩兵袁紹えんしょうが8万、公孫瓚こうそんさんが3万と書いてあるので確定ですが、問題は騎兵弩兵です。
 公孫瓚の騎兵「左右5千」を、「合わせて」と読めば5千ですが、「ずつ」と読めば1万になります。麹義きくぎの弩兵も、同じ理由で1千または2千と解釈が分かれます。

 ただしこのような小さい疑問は、謎というほどではない。
(この合戦をテーマにしてゲームを作ろうとする人は気にするでしょうが)

 もっと重大な事件に関するもの。それは、「孫堅そんけんはいつ死んだのか」です。


孫堅はいつ死んだのか

 まず、陳寿は『正史』にどう書いているでしょうか。

 初平3(192)年劉表りゅうひょうを攻めた。黄祖こうそを破って追撃したが、殺された。

『呉書』「孫破虜伝」

 孫破虜とは破虜将軍、つまり孫堅のことです。死因は、黄祖の配下に矢を射かけられたとのこと。

 この非常に簡素な記述の中に問題があると気づいたのは、裴注で知られる裴松之はいしょうしです。

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