母語ゆえの不自由さ


「砂漠が街に入り込んだ日(グカ・ハン)」を読んだ。
ここ数年、作者の母語じゃない言語で執筆された小説に惹かれる。
多和田葉子がわざわざドイツ語で書いた小説を読んだ。
「白い紙/サラム(ネザマフィ)」もそうだった。

こういう小説は静かだ。
静かな風景の描写があるわけではない。
読んでるわたしの心が静かになる。

乾いた、とか、淡々と、とか、幾つかバリエーションがあれどどれもきっとわたしが感じてることに近い。
読んでいて心地よい、肉迫してこない、厚みのない平面

村上春樹の書く文章が好きな理由もきっと一緒。
初めて読んだ時から何となく、英語の文章っぽくみえる。

わざわざ母語でなく、フランス語で小説を書くグカ・ハンがあとがきで書いている文章が私を納得させてくれる。

彼女にとって韓国語はあんまりにも自分の国の文化や社会に根ざしすぎているらしい。

なんとなくわかる。
私も失恋した時英語で恥ずかしい日記を書いたし、
自分の中でくすぶってる考えをお風呂の中、英語で呟いたりする。

自分の文化や生い立ち、社会の規範と強く結びついている分、
自由な思考を表すのが難しいのかもしれない。
手あかがつきすぎてしまっているんだろう、道具として。

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