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あなたの存在で確かめる、わたしの輪郭 〜映画「愛がなんだ」の気づき


4月の末、テアトル新宿で「愛がなんだ」を鑑賞した。

あらすじ
猫背でひょろひょろのマモちゃんに出会い、恋に落ちた。その時から、テルコの世界はマモちゃん一色に染まり始める。会社の電話はとらないのに、マモちゃんからの着信には秒速で対応、呼び出されると残業もせずにさっさと退社。友達の助言も聞き流し、どこにいようと電話一本で駆け付け(あくまでさりげなく)、平日デートに誘われれば余裕で会社をぶっちぎり、クビ寸前。
大好きだし、超幸せ。マモちゃん優しいし。
だけど。
マモちゃんは、テルコのことが好きじゃない・・・。

角田光代のみずみずしくも濃密な片思い小説を、“正解のない恋の形”を模索し続ける恋愛映画の旗手、今泉力哉監督が見事に映画化。
テルコ、
マモちゃん、
テルコの友達の葉子、
葉子を追いかけるナカハラ、
マモちゃんがあこがれるすみれ…
彼らの関係はあまりにもリアルで、ヒリヒリして、恥ずかしくて、
でも、どうしようもなく好き…
この映画には、恋のすべてが詰まっています。


見終わった後、なんと言うか、恋愛ってなんなのだろうと、なんとも言えない気持ちだった。

去年見た邦画が、「勝手にふるえてろ」「寝ても覚めても」「生きてるだけで、愛。」と言った、共感すると言うよりも、ざわっとするような感じのものが多かったのだが、今作もその感覚だった。

感情移入をすると言うような映画ではないとわたしは感じた。けれど、とても良い映画だな、とも思った。

こんな愛の形があるのか、と。ものすごくまっすぐなその愛し方に憧れに近い気持ちを感じていたのかもしれない。

それと、自分勝手な風に生きるマモちゃんがクズと言われるのが、あまりわからなかった。それなら葉子ちゃんだってクズなのに、なんでそれは言われないんだろうと思った。

全ての人を2パターンに分けることができるのだとすれば、わたしは葉子ちゃんゾーンに属しているのだと思う。

映画の中でマモちゃん葉子ちゃん側の人たちが悪として描かれていなかったことが、わたしの中での”良い映画”という評価につながったのかもしれない。



しばらくしても、心のモヤモヤが晴れなかったので、原作を読んだ。
そして、すごく合点がいったことがある。
このnoteではそのことについて書きたい。

ここから先はネタバレを含みます。
少しでも気になる方はご注意ください。

そして、映画の感想というのは、わたしはどうしても主観になってしまい、レビューとは言い難くて、そういうものを読みたい方には申し訳ないくらいの、自分語りかもしれません。。先にお詫びしておきます。




テルコは、マモちゃんのためなら会社を平気で休んだり、人を巻き込んで嘘をついたり、あの手この手を尽くして、マモちゃんと同じ世界で生きようとする。
そのためなら、彼女未満でも、友達でもなんでも、都合のいい形に自分を変える。離れていってしまいそうな彼を見て、「マモちゃんになりたい」と思うほどの好意なのだ。

それを、純粋さだと捉えていた。

ところが、小説の中で、マモちゃんにすみれさんを紹介されて、テルコが塞ぎ込んでいた時に友達の葉子が訪ねてくる。その時にテルコは「このままずっと葉子がここいてくれたら、私は私のままで、すみれ以下にはならない」と思う。


…驚いた。マモちゃんじゃなくてもよかったのか…。


恋愛は、誰かのことを好きになるだけではない。
他人を好きになることで、自分自身の輪郭を確認しているのかもしれない。

その誰かは、おそらく恋愛対象じゃなくてもいい。友達でもいいし、アイドルとか推しでもいい。仕事や趣味でもいいのかもしれないが、それでも誰か人間が関わっていることが重要だと思う。

好きな人やもの、ことを通してしか、自分を自分として認識することができないのかもしれない。

鏡がなければ、自分の顔を見ることもできないように。

(もちろん、恋愛のときめきはたのしいし、しあわせで、それだけでもうとても価値のあることなのだけど)


この作品の中でテルコは、マモちゃん以外の好きなものがない。これは極端な造りだけれど、マモちゃんがいなくなれば、テルコはテルコではなくなる。
葉子ちゃんがいてくれてなんとか形が保たれているが、葉子ちゃんだけではきっと足りないのだ。

多くの人は、友達や家族や職場の同僚など、関わりのある人がもっとたくさんいて、そうであるから、崩れない程度に輪郭が保てているのだと思う。


わたしは、”寂しい”という気持ちを、多分、ひとよりも感じづらい。
葉子ちゃんが、「寂しいことくらいあるよ!わたしのことなんだと思ってるの!」と言っていて、葉子ちゃんでも寂しいことあるんだ…と何故かショックを受けたくらいだ。

最近になって初めて、寂しいという気持ちがわかるようになった。

夜中に車で帰っていて、このままカーブを曲がらずに突っ込んだらどうなるんだろう、とか。ここで殺されても、しばらくは誰も気づかないだろうな、とか。わたしが感じる寂しさはこういうところに現れていたのか、と30年近く生きて、やっと、そんなことがわかったりした。

わたしの輪郭は、夢というすきなもので固めている。

今の環境はとても恵まれていると思う。この生活がすきだ。その気持ちに嘘はないし、わたしを形作ってくれている方々には本当に感謝している。

ただ、先の見えない不安と孤独がいつの間にか大きくなっていて、自分の形が崩れるかもしれないと、本能で感じたから、寂しいという気持ちがわかったのかもしれない。

それがわかって良かった。
寂しいという気持ちを認めることで、不思議と落ち着いた。友だちに会うとか、おいしいものを食べるとか、自分の甘やかし方はひとそれぞれだけど、そうやってちゃんと、自分を抱きしめてあげることができるようになった。


無意識の中で、こんなにも愛する対象と誰かからの愛情を求めていたとは思わなかった。
ひとりの時間が大切であることをとは別軸で。
恋愛に対してそんなに執着はないと思っていたけど、なんだかんだで愛に囚われているのかもしれない。



自分が愛を注げるひとの近くで、愛して、できれば愛されて、自分の輪郭が作られていく。そうしてやっと、自分らしく生きることができるのかもしれない。

愛する対象をみつける、そのためにも、自分自身が、好きだと、楽しいと、感じる気持ちに正直でいたい。それこそが、"自分を愛する"ということなんだろう。

週1note、最後の週でした。ありがとうございました。
参加者のみなさまお疲れ様でした。

https://note.mu/hiromi_okb/m/mcb1a9c4cee2c


今期は2回もサボってしまった。自分の中に、書きたい言葉がどうしてもみつからなかった。

愛がなんだという作品に出会って、投げた石が水面をピョンピョンと飛び跳ねるような、そんな鋭い勢いで、腑に落ちた感覚があった。

その勢いのまま、赤裸々に書いてしまったのですが、ここまで読んでくださってありがとうございます。会ったことのある人は特に、驚かれたかもしれません。
心の奥にあるネガティブはわたし自身で大事にしていきたいと思っています。今回はそれゆえに、書いて、みました。
わたしは元気です。

また更新します。



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