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友、遠方より来たる

わしはもともと友人が少ない。
というより意図して深くかかわらないようにしてきたフシがある。
めんどくさいし煩わしさの方が勝るような経験が多かったからだと思うし、
カミさんという理解者がいるからそれだけで十分だった。
そんなわしにとって唯一、何の気遣いもせずに素のままで過ごせる親友がいる。

6歳のときボーイスカウトに参加した。
そこにいたのが彼で同い年だから常に一緒に活動してきた。
共にしごかれ、共に叱られ、共に笑う。
そんな戦友みたいな存在だった。
お父さんも厳しさと優しさを兼ね備えた方でボーイスカウトの指導者をしていたから親子でずーっと付き合いがある。

そんな彼はお父さんの異動に伴って小学5年生になるタイミングで兵庫へ引っ越すことになった。
子どもにとって神奈川から兵庫というのはものすごーく遠い。
これはもう会えないのかな…とずいぶん寂しくなった記憶がある。
この年の夏、ボーイスカウトは何かのアニバーサリーだったので戸隠高原でキャンポリー(大規模なキャンプ大会)が開催された。
わしは一番の下っ端。
先輩には金髪モヒカンの先輩(中学生)とか富士山を走って登る猛者がいるので言葉遣いに気をつけたりパシリになるのは確実。
なーんかヤダなぁと思いながら貸切の夜行で長野に向かった。
そこに彼はいた。
お父さんと共にわざわざ電車を乗り継いで参加してくれたのだった。
思いのほか早く再会できたときの喜びはなかなか言葉にはしづらいけどとにかく嬉しかった。
当時のわしはヘタレだったからキャンプの数日間はずいぶん頼もしかった。
とはいえキャンプが終わればまたお別れ。
なまじ再会できたから寂しさも倍増して駅まで見送った。

中学生になるとわしはボーイスカウトに上進して、
より本格的な活動に身を投じていく。
ロープワークや読図(等高線や三角点など書いてある地図を見て山歩きする勉強)街頭で募金活動をしたりゴミ拾いをしたりとそれなりに熱心というか楽しんでいた。

中学2年のとき。
また何かの記念とかで富士山の麓に全国あちこちからボーイスカウトが集まる大規模なキャンポリーが開催されることになった。
当然のごとく富士山にも登る。
そこに彼はまたお父さんと共に兵庫からやってきたのだった。
水泳部に入っていたのでガタイもデカくなって同い年なのにずいぶん頼もしかった記憶がある。
わしは昔っからヒョロヒョロで瞬発力はあるけど持久力が全くない体だったから余計にそう思ったのかもしれない。

富士山はだいたい7合目あたりの山小屋で一泊して頂上を目指すことが多い。
が、ボーイスカウトは訓練として登るので夜に出発して徹夜で登り朝に登頂する強行軍だった。
当然のごとくわしは自分の隊から遅れ始めてしまい他の隊にもどんどん抜かれて一人ではないけど独りで登っていた。
そこに現れたのが彼のお父さんだった。
この辺のくだりは前にも書いたので少し端折る。

頂上で彼と無事に合流して先輩と4人で下山を始めたとき、雲の中に突入した。
「雲の中って寒っ…」と貴重な経験をしつつシルバコンパスで方向を見つつ無事に抜けたら彼がいない。
しばらく待ってみたけど一向に現れない。
こっちも下山のリミットがあるし、他の隊もいるから何とかなるだろうと思い先輩と下山してヘトヘトになってテントサイトに戻って仮眠をした。

その日の夕方。
ようやく彼はお父さんと共に下山してテントサイトに戻ってきた。
彼が言うには高山病+寝不足でハチに襲われるという幻覚を見ていたらしい。
そこにしんがりを務めていたお父さんがやってきてビンタを一発入れられて正気に戻ったそうな。
わしは登ってる時に幻覚を見ているし2人揃って幻覚&お父さんに助けられている。

そしてまた別れのとき。
中学生にもなると進路のことも考えたり部活があったりと慌ただしくなる。
今度こそお別れなんだろうな…と思いながら笑顔で見送った。

翌年。
我が家は親父が公務員だったから官舎(要するに団地)だった。
そこに彼はお父さんの異動で引っ越してきたのである。
今までボーイスカウトを通してしか会っていなかった彼がついに同級生。
毎朝一緒に登校することになって今まで以上に絆が強くなっていった。
高校は別になったけどお隣さんみたいなものだからたまに遊びに来たりボーイスカウト以外の時間も過ごしていた。
そしてボーイスカウトの先輩に影響されてガソリンスタンドで猛バイトをして中古車を買い走り屋になり周りを大いに困惑させた。

彼には信仰があり2年間の伝道に出なければならなかった。
お守りを渡すわけにもいかないので代わりとしてチチカカでビーズとペンダントトップを探してネックレスを用意した。
…が何も言わずに伝道に行ってしまい結局、自分で使うことになったけど。
で、また何の連絡もなくしれっと戻ってきていた。
それからすぐに彼は入籍して引っ越していった。
そこから遅れて数年後にわしもカミさんと暮らす部屋を選んで今の部屋に引っ越した。
それが偶然にも彼の家の近所だった。
切っても切れない関係というのはこういうことなんだろうねぇなんて話をしながら時々ドライブに誘ってくれたり買い物に行ったりと昔と変わらない(話す内容はちょっと変わるけど)時間を過ごしていた。

そんなある日。
彼は子育て環境のために北海道に移住を決めた。
わしにとっては悲しい恋の思い出しかない札幌。
そこに彼は家を買い新しい生活を始める。
さすがにこれは今まで以上に寂しくなってカミさんと3人で壮行会までいかないけど鍋パーティーをした。

彼はわしが精神障害だろうと何だろうと一切気にしないし変に理解しようともしない。
昔から何も変わらずに付き合ってくれる唯一の存在。
かけがえのない存在とは彼のことだと思う。
支えてるようで支えてない。
気を遣うことなくただ一緒に過ごしてくれるのはあとにも先にも彼だけだろう。

それから数年後のある日曜日。
インターホンが鳴ったので宅配便かな…と眠い目をこすりながらドアを開けたら彼がはにかんで立っていた。
寝起きだったのもあって「あ…幽霊」とマジで思ってしまうくらい唐突でインパクトがあった。
東京五輪関係の仕事でこっちに来たついでに寄ってくれたんだけど事前連絡ナシってのが彼らしかった。
わしが不在だったらどうしたんだろうか…?

彼の車で久しぶりに横浜の街を走り彼が速度超過で捕まった辺りを法定速度で進みながら何かと思い出のある野島公園で昔話をしつつコンビニ飯を楽しんだ(わしはトンビに襲われた)
その次の休みは銀座でカミさんを交えて食事をしたんだけど当時は緊急事態宣言直前で飲食店が片っ端から営業自粛をしていて終電後みたいに銀座は静まり返っていたっけ。

そして日本は得体のしれないウイルスのおかげで迷走を始めた。
ワクチンを打つのもリスクという体質なので細心の注意を払いながら過ごす時間。
そこからあいりきプログラムで飛び回り、
合間に帰省して都会の殺伐さから自分を解放してメンタルの維持に注力しつつ歩みは止めなかった。
今年になってついに感染したけれど幸い後遺症はないし万事順調。
そんな1年を締めくくるように彼はまたやってきた。
さすがに今回は事前連絡があったけどね(でもすでに東京には来てた)
仕事があるので日曜しか空いてないということでハマッチャの仲間には無理を言って休ませてもらい数年ぶりに彼との時間を楽しんだ。
ボーイスカウト時代にお世話になった方が昨年、逝去されたので2人でご挨拶に赴いてから関内に出て街をぶらつく。
もともと自動車整備士で機械好きなので来年の3月に解体される等身大ガンダムに連れて行った。
ガンダムに興味はなくともそれを支えているシステムは最先端なので思い切り食い付いて構造やメカニズムばかり気になっているのが彼らしかった。
そのまま桜木町まであれやこれや話しながらすっかり変わった街並みを通り抜けていく。
エアキャビンというロープウェイの下を通った時もメカニズムが気になっていて笑ってしまった。
もう一つ彼らしかったのは「晩ごはんどうする?」と聞いたときに「中華かなぁ」と答えたとき。
いや…中華街通り過ぎてきたじゃん…それ…早く言ってよ…
戻るのはさすがにキツイので適当なお店で済ませて彼の希望もあって横浜駅まで歩く。
この辺はボーイスカウトの習慣というか歩くことが苦にならない。
わしも勝手知ったる道なのであえて少し遠回りをして新参者エリアを通ってあれやこれやと家族のことや仕事のことを話していた。
長いこと横浜を離れていたし基本、車移動なので浦島太郎状態になっている彼の嘆き(切符買うところが少ない、人多すぎとかね)が面白かったな。

これを書いている2023/12/26。
彼は北海道に戻る。
見送りに行きたいところだけど残念ながら受診日と重なってしまった。
なので代わりにこれを綴っている。
こういう世の中なので何が起こるか本当にわからない。
冗談抜きで「また今度」が当たり前とは言えない時代だと思う。
それでもまた彼がひょっこりやって来る日を信じている。
わしが札幌に行く可能性は低い…。
いつかは分からないけど36年近づいたり離れたりしてきたからきっとまた会える。
他の人はともかく、それが彼なんだ。
また会える日を信じて彼と家族が笑顔で過ごせることを祈る。
そしてその日のためにわしも一所懸命やっていこう。

We ride together
We die together
Bad boys. for life.
彼への感謝を込めて。

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