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北海道遺産シリーズ(19)〜五稜郭と箱館戦争の遺構

 北海道にだって歴史がある。そんな歴史をたどり、未来へ紡いでいく北海道民の宝物。そんな北海道遺産を自身の足(車)で巡り紹介しようとおもう。なお、記事作成にあたって、『北海道遺産 完全ガイド』北海道新聞社 を参考にさせてもらった。

20個目の紹介。

五稜郭と箱館戦争については、僕が語るまでもなく、文献やネットの情報がふんだんにある。ということでここは、chatGPTにお願いすることとする。

箱館戦争: 箱館戦争は、幕末から明治維新の過程で北海道函館(箱館)で行われた戦闘です。この戦争は、新政府と旧幕府の対立の一環として起こりました。幕府の支配から脱し、新たな近代国家を建設することを目指す新政府と、幕府の存続と尊皇攘夷思想を支持する旧幕府軍との間で戦われました。

五稜郭(ごりょうかく): 五稜郭は、箱館戦争の主要な戦闘地であり、その名前は星型の要塞を指します。この要塞は、函館市内に建設されたもので、幕府軍が戦闘に備えるために築いた防御施設でした。五稜郭の名前は、その形状に由来し、星型の要塞を構成する5つの稜(かど)によって形成されています。

五稜郭の戦い: 五稜郭は、箱館戦争の中でも最も激しい戦いの舞台となりました。新政府軍と旧幕府軍の間で、要塞をめぐる激しい攻防が繰り広げられました。新政府軍は包囲網を築き、旧幕府軍を五稜郭に包囲しました。この戦闘は激戦となり、両軍とも多くの犠牲者を出しました。

chatGPTより

少しだけ補足すると、箱館戦争は明治元年(1868)10月に、榎本武揚らが五稜郭を占領したときから翌年(1869年)5月までの間、新政府軍と旧幕府軍(土方歳三を筆頭とした新選組の残党も含めた)の戦いで函館を主戦場にした戦である。

 五稜郭は、安政4年(1857年)に、江戸幕府が箱館奉行所(役所)を防御するために築いた西洋式の要塞で、完成は元治元年(1864年)である。

 この要塞の正式名称は地名に由来した「亀田御役所土塁」であったが、5つの「稜」をもつ星の形をしていることから「五稜郭」と呼ばれるようになった。こちらの方がよっぽどセンスが良い。
設計は、蘭学者の武田斐三郎さんで、フランス式の築城術を用いている。

 箱館戦争が終わって、7年後に箱館奉行所は取り壊されてしまうのだが、1980年代に復元の検討が行われ、平成18年(2006年)から復元工事が始まり、平成22年(2010年)に140年ぶりに復元されるに至った。

当時とほぼ同じ場所にされた箱館奉行所

ただ、復元されたと行っても、当時の敷地の1/3程度しか復元できていないとのこと。


中庭の大鼓楼


大広間


近隣で発掘された大砲


箱館戦争で忘れてはならないのが、新選組副長、土方歳三の存在である。箱館戦争で戦死して、最期の地とされる場所が、五稜郭からほど近い函館市総合福祉センターの敷地内にある。いまでも献花する歴史ファンが絶えない。

2016年撮影


五稜郭タワーには銅像もある

 


いまでは人気の観光スポット


随所に石垣も保存されている

 なお五稜郭は非常に有名で、多くの人が知っていると思うが、四稜郭というのも存在していた。訪れても草が多い茂った土塁があるだけで、人気の観光地である五稜郭とは対象的に観光客は殆ど行かなく、歴史マニア向け。


2016年撮影 土塁の跡


ひっそりと保存されている



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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